なんとなく『Hellblade: Senua’s Sacrifice』の続編『Senua’s Saga: Hellblade II』をやってみたりしたんだが、このゲームはUIが完全に(見え)ない。ついでに言うと、全編に渡ってレターボックスが入っていたりして、結果、カットシーンと操作(プレイ)パートの区別がつかない。
とはいえ、さすがにUIが全部なければプレイヤーは迷ってしまうわけだから、いわゆるDiegetic UIと呼ばれる手法が使われている。これはなんだというと、UIをゲーム世界の中に埋め込んでしまうという手法で、有名な例だと『Dead Space』シリーズのプレイヤーキャラクターの背中の表示だったり、『Mirror's Edge』の色のついたプラットフォームなどだ。要するに、プレイヤーだけが見えるUIを配して、ゲーム世界の中にそれと分かる形で配する技法で、一般的に「没入感が増す」と評価される(『サイバーパンク2077』のようなゴテゴテしているUIでも世界設定として「プレイヤーキャラクターにはそう見えている」と強引にDiegeticにする方法もないわけではない)。
オープンワールドゲームなどをプレイしていると、その表示物の多さにクラクラするときはないわけでもないが、個人的にこのDiegetic UIがすべてを解決しているとも思えないところがある。進行方向やインタラクトできるオブジェクトに目を引く色をつけてあると、目ざといゲーマーはすぐにその意味を把握して、「はいはい、この白いところは登れる目印ですね」というふうに冷めた気持ちでプレイしてしまうことも珍しくない。結果として没入感とは違う次元でプレイしてしまう自分が逆に浮かび上がってくる。
全編を通してシネマティックな『Senua’s Saga: Hellblade II』に関しても、この冷めたゲーマー的目線によって、Diegetic UIはなんだか制作者側の自己満足じゃないんかと思えてくる。プレイヤーキャラクターとプレイヤーが目撃する光景を一致させようという(「没入感」と語られがちの)ある種の理想があるのはわかるが、一体それが何を成し遂げようとしているのかわからないところもある。というか、ゲームの没入感とはそういった次元にないのではないか、そういった「没入感」はある種のイデオロギーなんではないかと思わなくもないのである。
また『Senua’s Saga: Hellblade II』はシネマティックなカットシーンとプレイアブルなパートをシームレスにすることによって、ある意味では「遊べる映画」とでもいう表現に到達しているが(実際のところグラフィックスは圧巻であり、映画といって遜色ない)、結果として一本道のゲームプレイを遊ばされている感覚がかなり強い。Diegetic UIもこの傾向を払拭するのではなく、「はいはい、次はそちらに行けば良いのね」という感覚に拍車をかけている(目印がわからない場合は場合でイライラする笑)(そのわりにはオーディオ情報でわりかしわかりやすいヒントをくれる)。評論家筋にはわりかし評判がいいが、ユーザーからの評価が微妙なところはわからなくもない。
思うに没入感という理想はどのようなビデオゲームに当てはまるものではなく、ゲームプレイの仕方やゲームジャンルによって異なっているようだ。Diegetic UIについてChatGPTに訪ねたところ、比較的ホラージャンルとの相性が良いことがわかったので、今後はホラーに関してこの観点を追求してみようと思う。