Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

私がSRPGに望むもの3

群像劇とは一般に多数のキャラクターがそれぞれの視点により、物語が展開するタイプのものとされる。しかしながら、この用語法は実際に英語圏と日本語ではややズレた概念として定着している。

英語圏で群像劇といえばグランドホテル形式と呼ばれるものが一般的だ。これは同名の映画作品から取られた名称であって、同一舞台内での登場人物の人間模様を描いた物語形式として理解されている。しかしながら、日本語でいう群像劇はもっと大雑把に多数のキャラクターがそれぞれの視点によって話が展開するようなものとされる。やや強調した形だが、ブギーポップシリーズなどが典型的だろう。

ビデオゲームが視覚的芸術形式であるため、個人的には英語圏の群像劇、つまりグランドホテル形式がSRPGを分析するには妥当であると思う。そうではないにしても、SRPGは小説の群像劇のようにキャラクターの一人称視点からのモノローグは極端にすくない。この点においてもRPGSRPGにキャラクターとプレイヤーの距離感は異なる。基本的にプレイヤーはSRPGのキャラクターの内面にはアクセスできない。(そのためかタクティクスオウガにおいてその手を汚すのはデニムであって、プレイヤーではない。本作の苦悩は民族主義的な虐殺に加担することというよりも、才気あふれる若者に虐殺を行わせるというプレイヤーの身勝手から起因すると思う。)

つまり、SRPGが描くべき群像劇とはグランドホテル形式、つまりは特定の一定閉じた世界内の人間模様であるべきた。この世界はある程度の包含関係にあってもよく、ユグドラル大陸やレンスター領でもいい。ただしSRPGにとって一番基本となる舞台設定はいわゆるマップた。

マップという閉じた舞台の中で展開される群像劇。これが私が求めるSRPGの理想的あり方である。群像劇がそうである通り、ここのユニットはお互いの能力で補いながらマップを攻略する。マップには様々な解かれるべきギミックが必要だ。逆に敵ユニットはこのマップと一体となり、インタラクションを持つ必要がある。狭い通路に潜むソードファイターや山岳地のペガサスナイト。プレイヤーもこれらを逆手にとってユニットを配置する。


さらに物語も会話ではなくマップによって展開されるべきだろう。援軍、裏切り、説得による敵の勧誘。マップで描写できる物語は思ったよりも芳醇だと思う。


次回は具体例からSRPGがユニットとマップによっていかに巧みな物語を描写するかを見てみようと思う。