ある黄色のボールが2個ある。その黄色は全く同一の黄色をしており、形やその他の部分でも同一の性質を持つ(Flank Sibley的に言えば、非美的性質の点で同一ということ)。
ポールはこの2つのボールは同じ色であり、同じ優美さがある主張する。ところが、ジョンはボールAを「赤が薄れた黄色であり、儚さを感じる」と主張し、ボールBを「青みがかったものから今にも熟れようとしている黄色で、生命の力強さを感じる」と主張する。というのも、ボールAは赤色から黄色を経て青いに変化するボールで、ボールBは青色から黄色を経て赤色に変化するボールであるからだ。今この瞬間は全く同じ黄色のボールではあるが、その来歴が違う。その結果、ジョンはこの2つにことなる形容を与えることになった。ポールとジョンの違いはどこから生まれるのだろうか?
基本的に分析美学において、物事の形容は非美的性質と美的性質に別れ、論者にもよるが、美的性質はその基盤として非美的性質に依存(専門用語ではsupervene)している。そのため、同一の非美的性質を持つ対象物(この場合のボール)は同一の美的性質を宿しているはずである。ポールの主張の根拠はここにある。
しかしながら、上記の説明からわかるとおり、このボールが同一の非美的性質を持っているのは、ある一時点である。黄色という性質を持つ前に、ボールAは赤色、ボールBは青色を持っていた。そのことを知って、知覚していたため、ボールAとボールBに異なる美的性質を付与することになった(一方は儚さ、他方は力強さ)。このポールの判断は以下に正当化できるだろうか。
ここで美的判断の対象物を4次元ワームとして考えることにする。4次元ワームとは対象物を時間軸を持った個物として扱う見方だ。そう考えると、ボールAとボールBはある一時点のスライスにおいては非美的性質において全く同一の黄色を示しつつも、全体としては色の変化による差異が発生し、異なる非美的性質を持つものと考えることができる。そして異なる非美的性質を持つ対象には、異なる美的性質が発現することは、上記の美的性質と非美的性質の依存性(supervenience)から正当化されるのである。
ようするに、ここで提起したいテーゼはこうである:
美的判断における非美的性質は通時的なものとして扱うことが可能で、美的性質はその通時的な非美的性質にsuperveneしている。
いろいろな問題に関わるまえに、この立場のメリットについて先に述べておこう。ひとつはこの広範な形のsuperveneを認めることで、美的実在論を拡張することができる。通常の美的実在論はある一時点の非美的性質と美的性質のsupervenienceを主張することで、一定の美的性質の実在を正当化する。「優美である」、「均整が取れている」など。しかし、私が規定した広いsupervenienceによる美的実在論は「巧みな構想が具現化されている」「熟練の技でつくられている」といったより広い美的性質の実在を正当化することができる。
目下のところ、対象物を4次元ワームとして考えた場合であっても、どこまでを非美的性質としてみなすかには多いに論争が巻き起こるが広くとれば、対象の材質、来歴、創作方法、創作者の意図、その他多くのものが候補に上がる。これらすべてを掬い取ろうとすると、4次元ワームとしての統一性が失われ、出来事タイプのようなものへ飽和してしまうという懸念もある。その成功の可能性は置いといて、とりあえずこのテーゼを擁護することを検討していきたいと思っている。そのためにやらなければいけないことをリストアップしておこう。
- 非美的性質と美的性質の定式化(Flank Sibley)
- 非美的性質と美的性質のsupervenienceと実在論(Nich Zangwill/Jerrold Levinson)
- 四次元主義の哲学、特に性質の問題(Theodore Sider)
- 関与的な美的性質と非美的性質のカテゴリー論を使用した区分け(Kendal Walton)
- 創作者の指向性は関与的な非美的性質なのか?