Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

音楽の楽しみ方とは

今日はヘッドフォンを忘れて死にそうになった。これは完全に中毒。なんか耳が音楽でふさがってないと、損した気分というか、落ち着かなくなるのだ。

それはそうと、音楽の楽しみ方について。(すでに楽しみというより、無いのが不安な人が何を言っているのかというのは置いといて。)

なんでこんなことを書こうと思ったのかというと、意外にも(意外でもないのかもしれないけど)「音楽の楽しみ方がわからない」って言う人が多いから。実際には謙遜して「音楽がわからない」っていうことが多いけど、それに対して自分が何か音楽がわかっているのかというと、それは怪しいので実際には「楽しみ方がわからない」という意味で解釈している。

いやもちろん、私がわからないっていうのも謙遜しすぎである。そりゃ知識としては一般的な人よりも圧倒的に知っている(なにせ大学院で研究していたのだから)。だけど、おそらくそういうことはじゃないんだと思う。「音楽がわからない」っていう人にロックの歴史を説明したり、教科書的な本を用意したり(例えば、大和田さんの『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』)すれば良いわけじゃないのはわかる。もっと感覚的に音楽をどう楽しんだらいいのかわからない。そういうことだと思っている。

翻ってそういう人たちがまったく「音楽を楽しんでない」とも思えない。好きなゲーム音楽を作業中に聞いていたり、映画を見て「あの曲が良かった」と言ったり、カラオケで歌ったり、アニソンを楽しんだり、音ゲーをしたり、しているのだ。だからこういう場合、何かしら「音楽だけを純粋に楽しむのが難しい」と言っているように思えるのだ。

では、私は音楽だけを純粋に楽しんでいると言えるのだろうか。まあ言える部分も確かにある。楽曲をそれが作られた時代から切り離し、音階や和音、スケール、リズム、サウンドのテクスチャを楽しんでいないわけでもない。しかしながら、それらを具体的に記述するとなると、とたんに「ブルーズのプログレッションとシャッフルしたリズムをパンクというロック以降の音楽に取り入れつつ、ビートはヒップホップのような黒人音楽の影響があって良いよね」とか、「琉球音階をスカのビートでならすことでエスニックなサウンドになって気分がいいね」とか、「これはフィル・スペクターサウンドを取り入れることで、60年代のウォール・オブ・サウンドを再現していて荘厳だね」とか、ほぼ確実に文脈的、歴史的な要素に言及せざるを得ないのである。純粋な音楽の記述?五線譜のこと?いやそれだって西洋音楽の文脈ありきだよね(というのが、私が大学院で学んだことの一部である)。

そう考えた場合、「音楽だけを純粋に楽しむのが難しい」というのはある種当たり前のことである。というか、そういう楽しみ方はないわけではないが、かなりマイナーなものな気がする。ぶっちゃけ、歴史や時代、民族性、ポップカルチャー、政治、そういったものと無縁に音楽を楽しむってのは、タイカレーをただのスパイスや香草のかたまりとみるくらい変わった鑑賞の仕方である気がする。

つまり、音楽が趣味と堂々と言える自分も、決して「音楽だけを純粋に楽し」んでいるわけではない。基本的には人間の文化の一部として楽しんでいる。それはもちろん、ロックやヒップホップっていうグローバルなカルチャーな場合もあるし、アニソンやボカロ、ネットレーベルみたいな極めて小さくニッチなシーンかもしれない。「音楽が趣味」と胸を張って言える人も、そういうカルチャーやシーン込みで楽しんでいる人が大多数である。

ということは、好きなゲーム音楽を作業中に聞いていたり、映画を見て「あの曲が良かった」と言ったり、カラオケで歌ったり、アニソンを楽しんだり、音ゲーをしたりしつつも、「音楽がわからない」という人と私のような音楽好きとは本質的な違いがないのであろうか? これには本質的にはないが、違いはあると答えたい。

楽しみという意味ではどちらも等価であるように思える。ただ、音楽が趣味という人は、おおよそ大文字というかメインストリームの音楽に対する文脈的な知識があると思われる。ようするに大文字のポピュラー音楽の歴史や文化、その形式に一定の知識を持っているということだ。

これがどういった違いを生むのか。それはコミュニケーションにおいて違いを生むと思う。ゲーム音楽しか聞いていない人にとって、植松伸夫サウンドプログレらしさはなかなかわからないと思うし、並木学が思いっきりデトロイト・テクノの影響を受けていることは気づきようもないと思う。その繋がりを認識することは、音楽を楽しむ本質には影響を与えないかもしれないが、似たような音楽やサウンドを探したり、他人と共有したりするときには大きな差を生む。プログレという概念やジャンルを知らない人が、植松伸夫っぽい音楽を探すのはやや難しいだろうし、『バトルガレッガ』のような音楽を探すのも難しいだろう。

あれ? そうすると、「音楽の楽しみ方がわからない」という人には、やっぱり(大文字の)ポピュラー音楽の知識を与えるべきなのか? 確かにそうかもしれない。自分の好きな音楽、それがゲーム音楽でも映画で聞いた音楽でもアニソンでも何かあって、似たようなものを探したり、他人とその良さを共有するためには、知識はあったほうがいいだろう。ただ別にそれは楽しみを増やすとも言い切れない。いや、楽しみは増えるっちゃ増える。でもそれは「純粋な音楽の楽しみ」というわけじゃなくて、我々人間の雑多な文化を理解する「不純な楽しみ」であって、人とコミュニケーションする楽しみだと思う。それも実際に仲良くするとかそういう話ではなく、人間という文化や文明につながるという広い意味でのコミュニケーションの楽しみだ。

非常に込み入った話だが、私が先の問いについて答えるとしたら、これくらいの分量は必要である。音楽を楽しむというのは、なかなか説明が難しいものである。