Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

ビデオゲームと長回し

映画にはいわゆる長回しという表現技法がある。要するにカットを割らず、フィルムを回しながら長いシーンを撮影する技法だ。役者の集中力とともに複雑なシーン構成能力を求められる。ブライアン・デ・パルマや最近ではアルフォンソ・キュアロンなどの監督がこの手の手法を得意としている。

翻ってゲームにおいてはこの手の表現はありきたりだ。それは当然、ビデオゲームにおいては3Dで作られた空間をカメラは自由に動ける。ステディカムやドリー、クレーンといった道具を使わずとも、カメラは自由に空間を動き回ることができる。役者も人間ではない。プリセットされたモーションを完璧に再現してくれる。ピタゴラスイッチと揶揄されるようなデ・パルマ長回しもそれほど難しくなく再現できるだろう。

また昨今はCG技術のおかげで、映画の世界では現実ではありえない長回しがちょっとした流行りになっている。代表例では3D映画としても傑作のキュアロンの『Gravity』。

ゲーマーならば10割の人が「ゲームだろ」って思うようなショットであり、もはや映画の次元から超え出ている。まあCG技術というのは基本的に同じなのでゲームも映画もないのだが。

とはいえ、この観点でこれまで映画史を見つめてみると、「ゲームだろ」っていいたくなる長回しは実際多い。最近、感じたのは一部に熱狂的なファンを持つ『Blues and Bullets』。これは映画みたいなアドベンチャーゲームなんだけど、逆に、なんかこのゲームゲームした長回しは見覚えあるなと思ったらこれが思いついた。

ポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』だ。看板を使ったタイトルショットから斬新な斜めアングルからグルっと街をまわり、もう一つのクラブの看板から中に入り、シームレスに会話が進む。めっちゃゲームっぽい(笑)。『Blues and Bullets』では短めだがオープニングのシーンが似たような構成をとっており、街の風景、看板、ダイナーの中に入り、会話とシームレスに続く。次の動画の5分30秒あたりからをみてもらいたい。

 『ブギーナイツ』の長回しなんかはもう映画の歴史に残るようなかっちょええショットなわけだけど、正直、ゲームの世界では本当に珍しくもない。舞台背景を説明しつつ、そのままカメラをダイアログシーンに移すのはむしろゲームでは安直ではないかと思うくらいだ。つまり、ゲームにおける長回しはそんなたいそうな技法というよりもむしろ怠惰なんじゃないかとすら思えてくる(そもそもFPSはゲームプレイ中は基本的に長回しだ…)。逆に言えば、ビデオゲームにおいては適切なカット割りをいかに行うかの方が難しいんじゃないんだろうか(プレイヤーのインタラクションを阻まないようにという点でも)。

とはいっても、やっぱり長回し長回しで面白い。ゲームにはちょっと映画とは違った手法として利用できるよって教えてくれたのが『Vanishing of Ethan Carter』だ。下の動画はエンディングのシーンで激しくネタバレだが、4分25秒あたりから見れば大丈夫。

 

眠る少年、燃える家、消火活動をする家族、そして美しい湖。室内から始まってどんどん引いていくショットだが、時間は止まっている。非現実的であるが、ゲームをクリアした人ならば、この状況の意味を即座に理解できる切なくも面白い効果を持った表現だ。つまり、ゲームの長回しには映画が持つような「実時間」といったリアリティから一定自由で、カメラが動きまわる間はまさに神の視点として時間が歪むのだ。

『Vanishing of Ethan Carter』は一人称視点であることを非常に強調したゲームであり、本作にはカット割りはほぼないと言って良い(一部演出上の転換はある)。そのため、他のシークエンスにおいても状況説明は長回しの手法によって描かれるが、ほとんどの場合、時間軸は歪んでいるというか、説明上の端折りがある。

まあこのような表現を長回しといって良いかは、微妙なところであるが、シーンがシームレスにつながることによって、舞台や事件の迫真性を伝える効果はあったように思えるのだ。逆に言えば、登場する事件の数々をカットを割って表現したならば、どこか虚構性が増していたような気もする(とはいえ、この作品における虚構性っていう問題は非常にやっかいなんだが…)。

この手の話、次、書く機会があればゲームにおけるカット割りみたいな話を書こうかな。とはいえ、あまりネタは思いつかない。

 

 

ゲームセンターというトポス: 紫煙、筐体、リーマンと

就職して会社員になって、ひとつ経験できて良かったことがある。それは昼休みにゲーセンに寄ることだ。

私はことあることにゲーセン、アーケードへの愛を語ってきたが、それは何もあそこにあるゲームが好きなだけではないのだ。ゲーセンでゲームをするというシチュエーションが好きなのである。

ご存知の通り、日本のゲーム産業には三つの故郷がある。ひとつは任天堂ファミコンに代表される家庭用ゲーム機というルーツ、もうひとつはWindows以前に存在したホビーパソコンというルーツ。そして一番古いのはアーケードというルーツだ。

アーケードというのは一番古いだけではなく、そのアトモスフィアからして独特だ。家庭用ゲーム機は言ってしまえば女子供の世界。しかし、アーケードは常に紫煙と暴力が渦巻く大人の世界であったのだ。(ホビーパソコンが持つ雰囲気についてはまたの機会に考えよう。)

インベーダーハウスの頃からそうであったし、格ゲーブームもそういうアウトロー感があった。正直、田舎の駄菓子のネオジオ筐体で育った私には遠いどこかの世界であったが、漠然として憧れを持っていたのだ。

昨今、ゲーセンはほぼ壊滅的な状況に至っている。存在してもプライズ機とプリクラに押されてビデオゲームは見る影もない。プレイヤーも盛り上がってるとは言い難い。

しかし、幸いにして会社の近くにはビデオゲームをしっかりと設置する店舗があったのだ。かつてのようなアーケードの盛り上がりはないにしろ、リーマンが昼間っからビデオゲームに興じることは不可能ではない。

あぁこの感じ。コンパネに灰皿がある情緒。これが憧れた大人の世界。そう思いつつ楽しむワンコインは格別のものだ。ただのゲームではない。ゲームにもシチュエーションとサイトスペシフィックな楽しみがある。ゲーセンを愛する人は多かれ少なかれそれを知っているのだ。

ゲーマーのための映画:ジャック・オーディアール『預言者』

世の中にはゲーマーのための映画というものがある。GTAシリーズのもとになったブライアン・デ・パルマの『スカーフェイス』とかそのたぐいだ。その中でも私がもっともゲーマーに見てほしい映画が本作『預言者』だ。

ジャック・オーディアールはフランスの映画監督ということもあって、日本ではあまり知名度はない。そうはいってもパルムドールを取るような作家なので映画好きには知られている。もっとも私が本作を知ったきっかけはアニメ『Noir』に出てくるコルシカン・マフィアについて調べていたからだ(笑)。

そう本作はチンピラとしてムショにぶち込められた19歳のアラブ系青年マリクとコルシカン・マフィアのアタタカイ交流を描いたヒューマンドラマである。状況からして主人公は最初から窮地にいるのはお分かりになるだろう。とりあえずはトレーラーをどうぞ。

逃げ場はない。出所するには6年かかる。仲間が必要だ。マリクはこの環境に順応するために、自らのエスニシティとは異なるコルシカン・マフィアのグループの下っ端になるのだ。逆にコルシカン・マフィアの牢名主であるセザールは、マリクもアラブ系という特徴を活かして、刑務所内での勢力を拡大するわけだ。

物語の大部分が刑務所内の人間関係と暴力で構成される。これ自体はこれまでの映画でもよくあった設定だろう。しかし、本作はそのような絶望的な状況を暗く深刻なものとしては描かずに、晴れやかな爽快さをもって仕立てあげるのである。そう、そこにあるのはまさにゲームのような爽快さなのだ。

以下、ポイントをしぼって本作がいかにゲームらしいか、ゲーマー向けに説明したいと思う。

1. 課せられる過酷なミッション

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まず本作のゲームらしさの筆頭としてあげられるのはセーザルらコルシカン・マフィアから課さられるミッションである。ミッションにはお使いから殺しまで広いレンジが設けられているが、なんと最初のミッションが一番過酷な殺しである。しかも、マリクと同じくアラブ系囚人の殺しである。

最初のミッションからして過酷。これはある意味でマフィアがマリクを「わからせる」イニシエーションとして機能しているわけだが、本当にエグいものだ。殺しの方法は口に入れたカミソリで相手のノドを掻っ切るというもの。「あ、QTEきたこれ」とゲーマーなら思うだろう。たぶん3回くらいは失敗する(笑)。

ともあれ、マフィアの下っ端として働くマリクには様々なミッションが与えられ、それらをこなすことがこの場所での生き残りとなるのだ。

2. 徐々に広がる行動範囲

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さてミッションが終わるとどうなるか。やはりマフィアはマフィアだけあって、有能な働きをしたものにはなんらかの褒美を与える。マリクは炊事係などの重要な役職を与えられることで行動範囲が広がっていくのである。この行動範囲の広がりは映画の観客と同じ視点を共有しているため、非常に楽しい。刑務所内の力関係やエスニックグループについてもマリクとともにプレイヤーは学べるわけだ。そして最初は頼りがいのないマリクだが、徐々に成長していく姿もまたゲームらしい。

コルシカン・マフィアからの一定の信頼を得たマリクは、刑務所内での独特の立ち位置をしめていく。マフィアの後ろ盾を持ちながら、アラブ系というのはトリックスターとして機能するようだ。そして同じく刑務所内のトリックスターであるジプシーの運び屋ジョルディと刑務所内での「ビジネス」を始めるのだ。また同じくアラブ系のリヤドからは文字を学び、親友となるのだ。

3. 時限制の外出ミッション

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さて表向き模範囚として過ごしていたマリクには数日間の外出が認められることになる。これをマフィアのセザールはすぐに利用しようとして、外部の連絡、さらにはより危険な運び屋のミッションを命令する。セザールの命令は絶対だが、マリクはこれらのミッションを鮮やかにこなしつつ、残った自由時間で自らのビジネスを拡大するのだ。

先に出所したリヤドと連絡を取り、ジョルディから聞いたブツのありかを探る。しかし時間は限られる。時間内に刑務所に戻らないと、独房にぶちこまれ、さらにはセザールに怪しまれるのだ。この外出というミッションがまた緊張感と開放感があり、ゲームらしさを素晴らしくかきたてる。

4. スタイリッシュなアクションと後味の良いクライマックス

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そうして刑務所の外での領域を広げていくマリクだが、そこにもやはり壁はある。そう、セザールの存在だ。セザールがいる限り、マリクは本当の自由が得られない。ここからがクライマックスだが、ここでは語らずにしておこう。

ひとつ言えることは、本作はアクションという意味ではかなり地味である。しかし、そのアクションの必然性とスタイリッシュさは凡百のアクション映画に負けない凄みがある。クライマックスのガンアクションの恍惚は、まさに我々がGTAで車を奪うあの躍動感に満ちている。実際にマリクも殺しをしながら微笑んでいるのだから。

このように本作はピカレスクロマンというべき、一人のギャングスタの誕生を描いた作品だ。しかしながら、倫理的な葛藤がなく、素直に主人公に共感できるのもゲームらしい作品だ。マリクの行動は通常社会においては犯罪でしかないが、この映画内においてはやるべき必然性をともなったものばかり。つまり、ミッションだからだ。ゆえにゲームらしく爽快。素晴らしい映画だ。

フランス映画だとか、カンヌだとか、そういうことはどうだっていい。そこにゲームが体験できる人ならば絶対に見たほうがいい映画。

Dischan Media:海外ビジュアルノベルが抱いた一つの夢 2

さてJuniper's Knotに衝撃を受けた私は、当然ながらネットストーキングを始める。すぐにDischanのページは見つかったが、彼らがどういった存在かはあまり理解ができなかった。というのも、彼らはどうも違った出自を持つ、バラバラの集団のようであったためだ。

 Juniper's Knotが作られた2012年はすでに海外ビジュアルノベルの下地はできあがっていたようだ。これにもっとも貢献したと思われるのは一つのソフトウェアである。Ren'Pyは2004年から開発されているビジュアルノベルエンジン。Pythonを基盤としながら「恋愛ゲーム」を作るという意味でRen'Py(レンパイ)という名前だ。

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ツールが普及した結果、英語圏にはビジュアルノベルを制作するネットワークが成立し、フォーラムでは活発な議論と共に多数の作品が作られている。さらに制作者同士コミュニケーションによって、ビジュアルノベルの制作ネットワークは小さいながらも国際的なものに発展していったのである。

ここらへんの展開は日本とはかなり違うように思える。英語という言語の強みを活かした結果、英語圏ビジュアルノベルシーンは急速に国際化したのだ。絵師が東南アジア、プログラミングが北欧、シナリオが北米。そんな感じである。

Dischanもご多分に漏れず、国際的な集団だった。WikipediaによるとファウンダーであるJeremy Millerはもともとカナダの大学生であったようだ。Juniper's Knotのライター兼プログラマのTerrence Smithもおそらく北米出身だろう。CombatPlayerはデンマーク。Doomfestに関しては未だ謎が多いのだが、シンガポールあたりの東南アジアではないかと予想している。(知っている人がいたら教えてほしい)

ともかく、Ren’Pyというソフトウェアによって成立した海外ビジュアルノベルシーンは急速にグローバル化した。今では中国や台湾等の東アジアのビジュアルノベルがSteamで配信されることすら珍しくなっていない。では、そんななかでDischanが目指したビジュアルノベルの姿とはなんであっただろうか。

Cradle Song:開発中止になった正統派学園ビジュアルノベル

話は冒頭に戻る。私がJuniper's KnotをきっかけとしてDischanについて調べた結果、発見したのはCradle Songという作品だ。私が見つけた時点ではまだ開発中であり、プレイアブルデモで遊んだ記憶がある。日常的な高校生活を描きつつ、ホラー要素のある非日常が挿入される点では、デモの段階ではストーリーもイラストもありがちなビジュアルノベルであったように思える。それでもやはりUIやイラストレーションのセンスは一見に値するものだ。

www.youtube.com

 

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本作は実際にはJuniper's Knot以前に開発が開始した彼らの処女作であるはずものであった。しかしながら、詳しい理由はわからないが、開発は中止となった。詳しい経緯はわからないが、どうも彼らには小さな作品であるJuniper's Knotをリリースした後、もう一つの作品であるDysfunctional Systemsに注力するという方針をBlogでは語っていたように思える。

とはいえ、青春学園ブコメとサイコホラーを合わせたCradle Songも十分に魅力的な作品に思える。メインのイラストレーターと音楽は同じくDoomfestとCombatPlayer。シナリオはDischan代表のJeremy MillerとTerrance Smithがつとめる。またChristine Loveの作品のイラストレーターをつとめるRaideも関わっている。

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実際に完成されたのはJuniper's Knotであったが、このころのDischanの公式Websiteには Christine Loveの Analogue: A Hate Storyなどの他のデベロッパーのゲームが販売されるようになった。つまりDischanは単なるゲーム開発チームだけではなく、高品質のビジュアルノベルを販売するプラットフォームにもなろうとしていたのである。おそらくこの時期が彼らの大望「英語圏により良いビジュアルノベルを生み出す」という理想が最高潮にあった時期だろう。その理想のもとに集まったメンバーがゲームを作り、販売して、普及する。そしてついにKickstarterで初の長編作品の開発が始まったのだ…

Dischan Media:海外ビジュアルノベルが抱いた一つの夢 1

いつの頃か、きっかけも忘れたが、私は一時期から海外ビジュアルノベルに興味を持つようになった。ビジュアルノベルという日本特有の表現形式が海外に伝播したということ自体、興味深かったし、Christian Loveのようなクリティカルな作家が生まれてきたことも興味深かった(ここでの「ビジュアルノベル」というジャンル名は正確には日本で言われるところの「ノベルゲーム」というくらいの意味である。正直、言えばこの用法には国内と海外での若干の概念のズレがあるが、ここではそれは置いておく)。

さらに言えば、私が初期に触れた海外ビジュアルノベルが実際のところ非常に高水準であったことも、興味を持つ大きなきっかけになった。その点ではDischan Mediaの存在が大きい。類まれなる才能が集結し、シナリオ、イラスト、音楽、UIすべてにおいて最高クラスのビジュアルノベルを世に問いつつも、一瞬のきらめきを残すまま消え去ったグループ(同人サークル?)だ(後年 Mahou Armsで復活しました!!やった)

商業作品としてはKickstarterのプロジェクトとしてリリースされた未完の『Dysfunctional Systems』のEp1しか残っていない。

 

そのため、彼らの活動を今後知る人は少ないだろう。特に日本人にとってはほとんど歴史の残らない小さな事件かもしれない。このエントリーの目的は少しでも彼らの活動に興味をもってもらい、英語圏におけるビジュアルノベルが抱いた一つの夢を共有してもらうことにある。

 Juniper's Knot:処女作で見せつけた圧倒的な才能

とはいったものの、実際に彼らの活動を事細かく紐解くのは困難だ。公式サイトにあった情報の大部分は、ある事件と共に消されてしまい、メンバーも散り散りになっている。ここで記述するのは私の個人的な思い出と、現在でもアクセスできる情報から再構成された彼らの軌跡の一側面だ。

彼らの活動が最初に世に知られるきっかけは、Juniper's Knotである。少なくとも私はこの作品で彼らに触れたのである。

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本作はWin/Mac/LinuxそしてiOSでリリースされている。私がプレイしたのは有料のiOS版であるが、他のプラットフォームは無料でダウンロードできる。言語は英語の他に有志翻訳で6ヶ国語に翻訳されているが、残念ながら日本語はない。辞書と格闘しながら読む必要があった。

しかしそれでもイラストレーション、音楽、UIの質は一瞬で伝わった。これは素晴らしい作品だと。なんとか理解した物語も短編ながら非常にうまいストーリーテリングだ。むしろ短編という長さを意識したクオリティコントロールがなされており、無料のゲームとしては最高級クラスのものであることは間違いない。

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イラストレーションは見ての通り、やや厚塗りだが日本のキャラクターデザインに近いスタイルだ。ただし立ち絵と調和した背景は昨今の日本のビジュアルノベルでは珍しいのではないだろうか。この素晴らしいアートワークを仕上げたのはDoofmestことSaimon Ma氏。長い間、ファンとして彼を追う私だが、未だに謎めいた存在の彼だがどうやら本職はコンセプトアーティストのようだ。3Dで描かれたハイスペックな画像には彼のビジュアルノベル(やエロを含む二次創作)活動とは異なった一面が現れており、彼が天才的なアーティストであることは一目瞭然である。(追記:彼がKatawa Shoujoの原画メンバーの一人であったことは後で知った。海外オリジナルビジュアルノベルの成立においてKatawa Shoujoが果たした役割は大きいようだ。)

 

音楽はCombat PlayerことKristian Jensen氏。この後も一貫してDischan作品に音楽を提供している。本作では雰囲気に合わせたメルヘンな音楽を提供している。通常はDAWでダンスミュージックを作っていることの方が多いが、Dischanではあくまでもゲームに合わせた作品を提供している。

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そして物語とスクリプトを手掛けるのが、Dischanの主要メンバーのTerrance Smith氏。彼は本作ではたった2名の1場面だけというミニマルなセッティングだけで巧みに物語を展開している。正直なところ、日本のビジュアルノベルに比べると場面転換が少なく、非常に思弁的というか、まるでプラトンの対話篇のように思える。ただこれは彼の持ち味の一つであり、大きな落ちや驚きよりも、じっくりとした会話を読ませるという演劇に近い雰囲気を持つ。さらにUIのセンスも抜群に良い。選びぬかれたフォントに無駄のない構成。作品に素晴らしい統一感が生まれる。

思えばこの時点でDischanの才能は遺憾なく発揮されていた。ただこれが小さなプロジェクトであったからこそ、ここまで統一の取れたの作品を出せたのかもしれない。この作品以降の彼ら活動をそれほど明るいものではなかったのだから…

(読みたい人がいたら続く)

私がSRPGに望むもの3

群像劇とは一般に多数のキャラクターがそれぞれの視点により、物語が展開するタイプのものとされる。しかしながら、この用語法は実際に英語圏と日本語ではややズレた概念として定着している。

英語圏で群像劇といえばグランドホテル形式と呼ばれるものが一般的だ。これは同名の映画作品から取られた名称であって、同一舞台内での登場人物の人間模様を描いた物語形式として理解されている。しかしながら、日本語でいう群像劇はもっと大雑把に多数のキャラクターがそれぞれの視点によって話が展開するようなものとされる。やや強調した形だが、ブギーポップシリーズなどが典型的だろう。

ビデオゲームが視覚的芸術形式であるため、個人的には英語圏の群像劇、つまりグランドホテル形式がSRPGを分析するには妥当であると思う。そうではないにしても、SRPGは小説の群像劇のようにキャラクターの一人称視点からのモノローグは極端にすくない。この点においてもRPGSRPGにキャラクターとプレイヤーの距離感は異なる。基本的にプレイヤーはSRPGのキャラクターの内面にはアクセスできない。(そのためかタクティクスオウガにおいてその手を汚すのはデニムであって、プレイヤーではない。本作の苦悩は民族主義的な虐殺に加担することというよりも、才気あふれる若者に虐殺を行わせるというプレイヤーの身勝手から起因すると思う。)

つまり、SRPGが描くべき群像劇とはグランドホテル形式、つまりは特定の一定閉じた世界内の人間模様であるべきた。この世界はある程度の包含関係にあってもよく、ユグドラル大陸やレンスター領でもいい。ただしSRPGにとって一番基本となる舞台設定はいわゆるマップた。

マップという閉じた舞台の中で展開される群像劇。これが私が求めるSRPGの理想的あり方である。群像劇がそうである通り、ここのユニットはお互いの能力で補いながらマップを攻略する。マップには様々な解かれるべきギミックが必要だ。逆に敵ユニットはこのマップと一体となり、インタラクションを持つ必要がある。狭い通路に潜むソードファイターや山岳地のペガサスナイト。プレイヤーもこれらを逆手にとってユニットを配置する。


さらに物語も会話ではなくマップによって展開されるべきだろう。援軍、裏切り、説得による敵の勧誘。マップで描写できる物語は思ったよりも芳醇だと思う。


次回は具体例からSRPGがユニットとマップによっていかに巧みな物語を描写するかを見てみようと思う。

私がSRPGに望むもの2

成長要素がSRPGに折り合いが悪かった場合、このジャンルはなにを目指せばいいだろうか。やはり固有のユニットがもつキャラクター性は捨てがたい。さらに言えば、通常のRPGに比べて多くのキャラクターを登場させることが容易だ。この点はもっと注目されるべきだろう。

実際、ファイアーエンブレムにしても通常のRPGを凌駕するキャラクター数が使用可能なユニットとして登場する。スパロボ系はむしろどのキャラクター(ロボ)が登場するかによって人気がかわるくらいであり、まさにキャラクターのラインナップこそすべてのような風采を帯びる。

キャラを豊富に描けれる。これはこれで1つのメリットだ。だが代償として、個々のキャラクターの掘り下げは甘くなる。30人を超すユニットの過去がカットシーンで流れるファイアーエンブレムは悪夢だろう(昨今のファイアーエンブレムはそうでなくとも悪夢だが)。

その代わり、特定の誰かの視点によらず物語を描写する、いわば群像劇的な描写にはSRPGの特性は強力に作用する。そもそもユニットを操作するというインタラクションはRPGのキャラクターを動かすのとは異なった距離感がある。ユニットとプレイヤーの距離感は常に一定であり、たとえ特定のユニットを優遇して成長させようとも、そのユニットがプレイヤーに特別な距離感をもって接近してくるようなことはない。(この点でも昨今のファイアーエンブレムではSRPGにあるまじき禁忌を犯している。マイユニットなる存在によってプレイヤーを強制的にゲーム内世界に引き入れるのだ。だがこの試みが成功したと思われる試しはない。)

このことは群像劇に挑戦したFF6の幾つかのイベントからも逆の方向から示唆される。FF6にはユニットを同時並行的に操作して攻略するイベントが発生する。また戦闘ではないがオペラハウスのイベントではこの形式を利用した物語が描写される。これらのイベントの操作感はまさにSRPG的と言ってよく、FF6が目指した群像劇としてのRPGを体現しているようだ。

ここまでの流れをまとめよう。SRPGは純粋なウォーシミュレーションから差異化する必要からキャラクターにフォーカスが当たる。しかしながらその結果としての成長要素はシミュレーションゲームの本来のあり方とレベルデザインにおいてコンフリクトを起こす。その一方で多数のキャラクターを登場させるという点でSRPGRPGが持ち得る物語の幅を拡張できる。それはしばしば群像劇といったタイプの物語に適している。ではSRPGが描くべき物語はどのようなものなのか、群像劇だとしてどのような群像劇であるのか。

 

私がSRPGに望むもの3 - Dance to Death:死に舞 on the Line