Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

私がSRPGに望むもの1

とはいってもそれほどたくさんのSRPGをプレイしたとは言いがたい。ファイアーエムブレムシリーズは全作プレイしていないし、スパロボ系はほぼやってないし。タクティクスオウガはもちろんプレイしているが死者の迷宮を遊び倒したとはいいにくい。

それでも直感的にこのジャンルが向いているもの、向いている世界観、向いているストーリーがあると思う。それについて話そうと思う。

まずSRPGとは何かだ。ゲームのジャンルはそれほどはっきりした区別ができないものではるが、概ね「成長要素があるシミュレーションゲーム」とされていると思う。この定義は「成長要素」と「シミュレーションゲーム」というさらなる概念によって分析される必要は待たれるが、ここでの議論ではそこまで踏み込む必要はないだろう。「成長要素」とは端的にいえばレベルシステムであり、その他のユニットのアップグレードだ。「シミュレーションゲーム」とは何らかのリアル(それはファンタジー世界であってもいい)を再現することを志向したゲームである。ただしSRPGのシミュレーションとはほとんどの場合、ウォーシミュレーション、コンバットシムを指す。戦術、戦略といった規模の違いはあるかもしれないけど、戦争を題材にしていないSRPGとはあるのだろうか(もしかしてあるんだろう)

ここで分析された「成長要素」と「シミュレーション」によって、SRPGが戦争の中でのキャラクターの成長を描くと考える向きはあるだろう。事実、多くのSRPGにはこの点にフォーカスを当てるギミック、つまりレベルアップとかクラスチェンジとかユニットの友好度などをフィーチャしている。さらにこれらの成長要素は主にキャラクターに付与される。大戦略のような純粋なウォーシミュレーションにも多少の成長要素はあるが、ほとんどの場合、SRPGとされないのはここに理由がある用に思える。つまり成長要素は戦車や戦闘機の(トークン」ユニットに付与されるのであって、個別のキャラクターにされない。(逆に戦場のヴァルキュリアではレベルが兵種全体に付与されるのは、SRPGというよりももっとウォーシミュレーション的な雰囲気が強かったように感じる。)

ここで生まれた一つの仮説、「SRPGはキャラクターの成長を描くウォーシミュレーションゲームである」というのはそれ自体は悪くないジャンルの規定であり、思想でもあると思う。ただし事実として見た場合、キャラクターの成長をうまく描いたSRPGというのはあまり思いつかない。せいぜい主人公が後半にクラスチェンジするとか、弱いユニットがレベルアップによって予想外に成長するとか、その手のことであって、ゲーム全体として成長を描くというよりも、あくまでもその一要素としてしか機能していないように思えるのだ。

それもそのはず、この成長要素というのはSRPGの一番むずかしいところ、まさにアキレス腱とも言えるポイントなのだ。というのは、多くのレベルシステムやアイテムによる強化といった要素はシミュレーションゲームレベルデザインを破壊する要素を含んでいる。この手のゲームをやる人にとってはしれたことだが、ほとんどのSRPGはユニットが育っていない序盤の方がキツい。そしてラストバトルは盛り上がりにかけることが多い。

本来のウォーシミュレーションやストラテジーゲームは主にマップ(と敵)の配置によってレベルデザインを行う。しかしながら、プレイヤー側の戦略が可変であると、マップで作られたレベルデザインが破壊される。これはたとえ、プレイヤー側のレベルに動的に敵ユニットの強さを調整しただけでは、解消しない問題である。というのもマップの地形補正などがまったく意味のなさいだけ、双方の能力がインフレした場合、それはただの損耗戦であって、ほとんどウォーシミュレーションとしての意味は成さなくなる。

ではなんなのか。SRPGにとって成長要素とはある意味、その本質であり毒であるのか。話は次回に続く。

私がSRPGに望むもの2 - Dance to Death:死に舞 on the Line

眠りによって全てが終わる:深夜アニメの音楽ノスタルジア

あまり健全な状態の精神ではなく、こういう時は限りなく鬱な音楽を聞きたくはなる。それも90年代末から00年代にあったいわゆる「深夜アニメ」のサウンドトラックを。もちろん現在も深夜アニメっていうかアニメは深夜に主にやっているわけだけど、個人的にこの時代のものがTHE深夜アニメだと私は信じている。エヴァのヒット以降、アニメの表現幅が広がったなんでもありの雰囲気。表現幅といっても、今のアニメみたいなリアルな背景とか3Dモデリングとかじゃなくて、リミテッドの中でいかに実験するかみたいな感じだけど。

と、Twitterでベストアニメサウンドトラックを考えてたら、結局そういう深夜アニメになったという話。順に追ってみよう。

 serial experiments lain

アニメの音楽といってOPやEDばかり話に上がるのは嫌だ。もちろんlainはOPも素晴らしいが、この奇っ怪なというか正直後味の悪い劇伴はどんなワンシーンよりもlainらしさ出ていると思う。

仲井戸麗市が手がけたことで知られるこのOSTは、ギターサウンドを貴重としながらもまさに深夜アニメとしか言いようがないわけのわからん不気味さを持っている。アンビエントからジャズ/フュージョン、ブルースまでごった煮ながらも統一感がある。

Boogiepop Phantom

個人的にlainの精神的続編と考えているブギーポップのアニメ版。その映像の暗さは異常なもので、lainよりもカルト的な雰囲気がある。OSTは当時、まだアンダーグラウンドだった日本のテクノシーンの素晴らしいドキュメンタリーだ。電気グルーヴとかそういうのじゃなくて、こういうメンツでアニメのOSTが成立していることは奇跡のようだ。

紹介するトラックはなんとレイ・ハラカミのもの。そしてアニメのサントラであってもレイ・ハラカミは当時からレイ・ハラカミだったんだなと思わせる。このOSTには実際に劇伴では使われていないトラックも多いのだが、このレイ・ハラカミのPoneはしっかりと重要なシーンで印象的に使われている。ぼんやりとした雰囲気から心洗われる流れはまさにブギーポップの雰囲気をうまく伝えている。

Gungrave

00年代はまだまだメディアミックスという言葉がよく使われてた。今では別に珍しくともなんともないんだけど。ガングレイヴはもともとゲームの企画として始まったものが、アニメも平行して作られたものだ。内藤泰弘のキャラデザということもあって良い意味のB級感満載のアメコミ風ゲームになっているが、アニメの方は脚本家と監督の都留稔幸が非常に良い仕事をした結果、ファンタジー風男たちの挽歌のような内容になっている。要するにマフィアたちの裏切りと友情の話だ。

サントラは菊地成孔の先輩にあたり、菅野よう子のバンマスなどもやっている今堀恒雄だ。今堀といえば同じく内藤泰弘トライガンのOPも有名だが、個人的にはこのガングレイヴのOPの方が好きだ。だってこれなんていうジャンル?当時、エッジの効いた深夜アニメではインストをOPに当てることも珍しくなかったが、ここまでアヴァンギャルドなのは聞いたことがない。チェンバー・ロックなのかスムース・ジャズなのか、なんとも言えないんだけど、マフィアものの回想シーンのようなものといえばなんとなく納得の行くような感じがするのである。

 Gunslinger Girl

本編アップロードされているのを貼るのは少しためらいがあるが、これOSTで確認できなかった。(OSTもまあ持ってないんだけど)。なんにせよ、一見してオタクの慰みものとして語られがちな本作だが、少なくとも最初のアニメは非常にしっかりとした演出がなされていた。この場面、追走するシーンにビブラフォンをフィーチャーしたアップテンポのジャズを使うセンスは、最初に見た時からはっきりと覚えている。トリエラの大人っぽさともよくマッチしているし、トレンチコートもかっこいい。

音楽は芸大出身の佐橋俊彦という人がやっている。いかにも職業的な劇伴音楽作曲家という感じで、他の楽曲もかなりの安定感がある。同じく佐橋が作曲したEDの「DOPO IL SOGNO 〜夢のあとに〜 」も曲はガブリエル・フォーレの歌曲「夢のあとに」をもとにしたという大胆なものだ。シリアスな(少なくとも一期は...)雰囲気とヨーロッパの情緒感がちゃんと音楽にも現れている。アニメとしてはだが。

TEXHNOLYZE

ここでTEXHNOLYZEですよ。まじでこのアニメこの時期の実験的なアニメの中でもドを超えていた。サイバーパンク残酷任侠ディストピアSF?「もうそんなことはどうでもいい、僕は彼らを啓蒙したい」「駄目だ、もっと向上しようよ」そういう吉井さんのわけのわからんセリフがこのアニメを物が語っている。決して楽しいアニメではないが見る価値がある変態的作品だ。

音楽も輪をかけてやりたい放題。音楽は浦田恵司、溝口肇が関わっている。二人とも職業アニメ作曲家っぽさあるけど、彼等の音楽のやりたいことを全部あらいざらい出した感じ。ブルースありダブありギターノイズあり、本当になんだかよくわからん。しかも二枚組のアルバム。一枚は吉井さんがフィーチャー(吉井さんはこのアニメのある意味、男の中の男たるものだ)。

ただこのサントラ、どこでなっているかあんまり記憶ないねw

Noir

梶浦由記は好きだけど、まあいつも一緒ていうかフリジアンを貴重としたエスニックサウンドに80年代的なテクノ混ざっているねんと思う。実際、そういった雰囲気は最初の.hackのOPでは極めて良く発揮されていて、まるで前衛ダンスのような振付ですごいわけのわからん音楽がなるわけよ。そのほかヤンマーニとか名曲珍曲が多いのですが、やっぱNoirをもってきてしまう。これ単体で聞いたらいつ聞くのっていう雰囲気であるだけど、あの世界ではこの音楽がなっていることが納得できるわけ。だって1000年ものあいだキリスト教を信じつつ、暗黒世界でアサシンがいたわけだよ。そりゃ荘厳でカオティックな音楽さ。アサシンクリードもそのうちノワールをテーマにすればよい。

ともあれこの時代の梶浦×真下耕一は個人的にはすごいんだけどな。リミテッドアニメのすえに映画的な演出にたどりついた。雰囲気のある背景に間の多い会話。今のアニメにはない要素ですわ。 

ナジカ電撃作戦

ここに来て落としに来たかと思われそうだけど、このアニメも音楽も好きだよww バカバカしいまでのパンツアニメだけどちゃんとジェームス・ボンドをやろうとしてる雰囲気だけ(だけは)伝わってくる。結果としてこのオケであるww 曲だけ聞くと結構かっこいいスパイ風ビッグバンドジャズなんだけど、ホーンがところどころで音ズレる。なかなかすごい、近所のブラバンの同窓生が集まって吹いた感じ。でもそれでもやりたいことがわかる。スパイ映画、スパイ音楽がやりたいと。アニメだってやりたいことがわかる。スパイ映画でパンツが見たい。素晴らしい。そこにこころ打たれる。

OPがこの出来で、基本的にすべてこの出来です。これある意味、世紀の珍盤的なものだとおもうので、ヒンデミットの研究とかしている人は買った方がいいと思うよ。

孤立した楽しみとしての音楽

ふと音楽でしか実現不可能な体験というものについて考えてみる。ゲームや映画ではなく、音楽で。絶対音楽とか抽象表現とか難しいことを抜きにすると、個人的には音楽が「この自分にとって」現実のものとして鳴ることが一番、大きな違いのようだ。たとえ映画やゲームがフィクションの世界に没入している感覚を味あわせてくれても、それはお話として楽しんでいるのはほとんど否定出来ない(フィクションのパラドックスという問題はあるにせよ)。

他方、音楽はなんだか違う。いやただ私が違うものとして体験してきただけなのかもしれない。物語芸術ではないから当然だが、音楽はつねに自分にとっての音楽だ。こっ恥ずかしい言い方すれば、それは自分の人生のサウンドトラックなのだ。

人によってはこれはどうでもいいかもしれないが、自分にとっては重要な違いだ。映画やゲームによって現実の辛さを一時忘れることはできるかもしれないが、音楽のように人生そのもの自分そのもの慰めることはできない。字義通りに音楽は自分を癒やすように思える。

自分は悲しいときによくニール・ヤングを聞く。普通に『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』あたりを。または鬱屈しているときにはシューゲイザーのロックを聞く。今だとJesuを聞いている。

歌詞の内容がよくわからなくても、奏でられるサウンドに自らの波長を合わせる。いや自分の波長に合わせて、それに穏やかに干渉するように音楽を選ぶのだ。いわゆる癒し系音楽とはまったく異なるものなのだが。

そしてたいてい自分自身でなんとなく満足する。音楽を愛するということはどこか引きこもるような部分がある。もちろん、どこかで誰かとつながっていたいような感覚はあるにせよ、孤立した一人として音源というメディアで通してつながっていたい。3次元の世界が複雑すぎて、時間と波だけの感覚で話したいのかもしれない。

*追記:

あ、ゲーム音楽は違うわ。あれは俺がゲームの世界行ってます。ただニンテンドーコアみたいなのは、バグった感じになる。

 

誰得ゲームレビュー2:サウンドトラックが世界を作る『Lone Survivor』

Jasper Byrneというゲームクリエイターをご存知だろうか。インディークリエイターの中では有名な彼だが日本ではイマイチ知名度はない。それもそのはず代表作の『Lone Survivor』はローカライズされていないからだ。実は私もまだ通してプレイしていない。このコーナーはプレイしてないゲームについても勝手にピンポイントで語るので今回は『Lone Survivor』を扱いたいと思う。

謎の伝染病が蔓延したポストアポカリプスの世界。生きているものはほとんど見当たらず、ただゾンビのようなモンスターから逃げる他がない。初期の『サイレント・ヒル』に影響を受けた本作は2Dドット絵のサイドスクロールという点をのぞけばありがちなアドベンチャーだろう。

もちろん、カルト的にヒットした本作。そのストーリーが多くのものを魅了した(らしい)。自分のつたない英語能力が素晴らしいナラティブを破壊することを恐れた私は途中でプレイを投げ出してしまった。しかし、そんな私でもこのゲームが描く雰囲気の一部が稀有なものであることはこの音楽からだけでもわかる。

 

 枯れたクランチギター、4度(5度)のループ超シンプルなコード進行、穏やかなシューゲイザーロック。まあ別にそこらのインディーバンドが作っても珍しくない曲だが、これがゾンビもののアドベンチャーゲームのサウンドトラックであることが驚きだ。しかも2Dピクセルアートというスタイルの。

この曲を聞いたとき、この曲のために用意された場面、演出、ストーリーがあると知って、これは真剣に取り組むべきゲームだと思った。まあその結果、腰が重くなってまだプレイしていなんだけど。

結局、何かといえば、本作はアートなんである。最近のインタビューでも彼ははっきりと主張している。

商業的な判断に動機づけらた商品というよりも、「アート」を作ろうと決めている。

"I am determined to try (and fail if need be!) to make ‘art,’ rather than products, things motivated by commercial considerations."

 

www.shocktillyoudrop.com

そして2Dのピクセルアートですら、予算や自分の能力不足ゆえの「美的選択」であって、特に「レトロゲーム」に思い入れがあるわけではないようだ。

こんな彼のバックグラウンドは上のインタビューでわかるとおり、予想以上に「アーティスト」だ。ドクター・フーの脚本家の父を持ち、ZX SpectrumやAmigaといったシーンに触れ、90年代末のドラムンベースのシーンで活躍したDJなのだ。日本でレジデントDJをしていたころもあり、その時、アニメーター/アーティストの森本晃司と出会った。

そんな彼がゲームを作り出しのは2000年後半になってからのようだ。いくつかのフリーゲームのリリースを経て、その才能は『Lone Survivor』で花開く。既にアーティストであった彼がゲームをアートとして捉えたことは興味深いし、実際そのストーリー、アート、サウンド、演出を見れば彼の意気込みはわかるのだろう。

この後、ゲームクリエイターとしての活動はなりを潜め、インディーの大ヒット作でありカルト作となった『Hotline Miami』のサウンドトラックを提供するくらいしか表立った活動はしていなかった。

しかしながら、彼の提供したトラックはどのトラック以上にも『Hotline Miami』の世界観をはっきりと描いている。それもそのはず、Cactusと彼は以前から交流があり、レフンの『ドライブ』にハマったのも二人の交流の結果であったようだ。

まあこういうわけで、Jasper Byrneという人物は極めて興味深いのであるが、最近になってようやくTwitterとか更新して、生存確認したからこのブログを書きました。またゲームも作ってくださいね。

 

 

誰得ゲームレビュー1:sextの快楽『Life is Strange』

 

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仕事でゲームレビューしているときは(特に紙)、少ない言葉でそのゲームの根幹を撃ちぬくことを目指していた。だが俺はもうライターではない。だからどうでもいいことを書く。誰に通用するかもわからない、俺だけのゲームレビューを。と書いてみたが、別にシリーズ化するつもりはないぞ。好評ならば考えるが。

今回扱いたいのはスクエニパブリッシングでDONTNOD Entertainment が開発した意欲作『Life is Strange』にフォーカスを当てたい。タイムリープ能力を持ったアメリカの地方の女子高生をテーマとした作品。その日常的な題材からもうリリース前から興味を持ってたし、実際英語版をやってこれはすごいと思っている。もうなんというかジョン・ヒューズあたりの学園映画モノが好きな人は絶対やったほうがいい作品で、スクエニはよくぞパブリッシングした、ぜひともSteamにも日本語ちょうだいねと思う次第。

 

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ということで、英語なんだけど、これはこれで英語でやるのは楽しい。等身大の女子高生(というか写真を学んでいる専門学校生という感じだが、写真というテーマもまた小賢しく良いが)が英語で会話するのが生で伝わってくる。NerdやJocksといった定番ネタも出てくれば、「この子はレティーナディスプレイだ」とか「こっそり忍び込んで映画版ファイナルファンタジーを見れるわ」とかナウな表現を使う。

中でも物語上(ep1)、重要なタームとして「sext」という言葉た登場する。なんだかルームメイトみたいな二人の女の子が喧嘩しているんだが、その理由として「だってあんたがZacharyとsextしてたんでしょ」というようなセリフが出てくるのだ。最初は親友の友達に男を盗られて怒っているのかなと思った(恐ろしいこの学校は)が、よくよく調べてみればsextとは……

 

ja.urbandictionary.com

 

つまりメールとかSMSとかでエロい言葉を送り合うこと、あえて日本語でいうとチャHとなる(爆)。なーんだ、ただそんなことで怒っているのか、さすが若けーなって思ったけど、まあ怒るかww 一気に展開が良い意味で馬鹿らしく見えて微笑ましく感じてくる。

こういったちょっとしたエピソードにもありそうな話を持ってくるのが本作の素晴らしいところだけど、それとは別にこのsextなる概念、明らかにインターネット語の言葉のようだが、いったいどうやって訳すべきなんだろう。さすがにチャHはねーよなw っていっても「あんたZacharyとメールでイチャついていたんでしょ」だと全然インパクトもないし。

 

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だいたいこのsextってどういうった内容からsextになるんだろうか。suggestive textとなると、「今度一緒に蟹でも食おう」とか日本ではsextにならない(ならねーか)?でもだったらもう露骨に「君の◯◯がXXだよ」みたいなのか?それはそれで高校生がやっているとしたらなんか嫌だな。

そもそもtextの解釈とはそれ自体、エロスの発露であって、誰しも固有の解釈があり得る。たとえ料理のレシピ本にすら欲情する男はいるのだと、タイトルの元ネタ的には言いたくなるところもある。なので実際にどういった文面がsextなるものか調べてみた。

と調べてみたが、どうもネタ画像しか見つからない。だいたいがジョークに落ちているか、間違ってポストして恥ずかしいみたいなのが多い。

 

http://cdn.smosh.com/sites/default/files/ftpuploads/bloguploads/sext-fails-its-dark.jpg

 

これはなんかわかりやすいの。結構、わかりづらいネタも多く、やっぱSMSでやるのが基本のようだ。露骨なやつもあったので後は各自調べるように。どちらかと言えば壮麗な官能小説ではなく、やはりこれは「チャH」と呼ぶべき何かだろうと思いました。ただ「チャH」なる言葉の響きはsext以上に軽く馬鹿っぽさが半端ないゆえ、翻訳者は頭を抱えるでしょう。日本語版が楽しみです!!

 

 

Bandcamp いつからか11月

既になんのブログかわからなくなったけど、自分で聞くとき便利なので、音源メモだけはやりたい。正直、仕事が忙しすぎてたいして音楽聴けてないんだけど。そしてこれ5年くらい言っているけど、音楽話する友人とかいなくて、非常に孤独感強い。まじでアイドルブームとか死ね、日本の音楽産業はゴミだと本気で思っていたりします。

 

 男女混合デュオバンド。ギターとドラムのベースレス編成なんだけど、くっそかっこいいわ。かなり複雑な構成の曲を書くけど、決してプログレではなく、どちらかと言えば昔カオティックハードコア(笑)とか言われいたのに近い気がする。でもボーカルが女性なんで、すごく新しい感がある。よく知らんバンドですがデビュー・アルバムでこのクオリティ。

 

 こっちは有名なラッパーのマイロのセカンドアルバム。といってもあんまり日本語で情報ないからバックグラウンドとかわからんねん。ミックステープ出身ってことで最近のラッパーっぽいキャリア。さらにタイトルからうかがわせられるのは、ネット系ラッパーってことだ(笑)。Nujabesのようなチルアウトしたトラックにけだるいラップがのる感覚は日本のインターネットキッズにも響きそうではある。よーしらんが良いアルバムだよなートラックもラップも(リリックは読んでない)。

 

 ポストロック関係でも特にアカデミックな雰囲気のあるSon LuxことRyan Lottの新作。まあ鼻にかかるプロジェクトではあるけど、この音源にはぶったまげたね。ポストロックだわーポストロックすげーポストロックあちぃ。90年代の死後だと思ってたけど、結局ロックのフォーマットでやってないことまだまだあるじゃんと、Henry Cow時代のチェンバー・ロックとはまた異なった次元で音を作ってる。まあとりあえず、下のPVでも見てください。

 

 これまたチェンバー系。ぜんぜん情報なくて、そんなに有名じゃないっぽいけど、これすげえアルバムだよ。カリフォルニア、オークランドのバンドらしいがまあアートスクール感あるけど、Son Luxに比べるとぜんぜん鼻にかからない。なんか大学生がフランク・ザッパ目指して作ったバンドみたいな感じだけど、クオリティはかなりの粋に達している。とくにブラスのセクションを使う部分とか、作曲すげえなと。これ演奏している姿も良いのだよ。

スタジオセッションのPVだけど。すげえなー、オレもこんだけの楽器ならべて曲作りたいわー。公式でチェックしたら7人編成みたい(http://wearemakeunder.com/about/)。アーケイドファイアとかああいったの流行りはさったけど、やっぱ大編成もいいよね。そしてアーケイドファイアに比べればかなり演奏うまくて、ちょっとR&Bよりで、実験的だ。

 

 

Christine Loveとフェミニズム in videogame

Christine Love(日本語表記はクリスティーン・ラブが正しいそうだ)についてはファミ通とかで記事に書いたくらい評価をしている現代のビデオゲームクリエイターだ。彼女に興味をもったきっかけはSteam初のビジュアルノベルと言われるAnalogueだった。当時の私にとって外国人女性がアニメ絵のビジュアルノベルを作ることだけでも衝撃だったのだが、そのテーマが男尊女卑だというのはもう何がなんだがわからなかった。しかしちょっと調べると2000年代後半からビデオゲームにおけるフェミニズムというムーブメントが徐々に広がってきていることがわかった。

今回、知人の方々と彼女の処女作『Digital: A Love Story』の日本語版を公開できたので、たまには思い出(?)などを書き綴ってみる。

今でも多くの日本人にとってフェミニズムビデオゲームの食合せは悪いだろう。人によってはそんなイズムがビデオゲームに入ることすら認めたくないと思う人もいるだろうし、どうせ表現規制をやる連中でしょと侮っている人も多い。

だがパンク好きでライオットガールの洗礼も受けていた自分(要するにビデオゲームカルチャー以上にパンクカルチャーに染まっているだけなんだが)は、この組み合わせを素直に「かっこいい!」と思った。ビデオゲームの中でフェミニズムを追求することは、政治的な正しさといった問題以上に端的にかっこいいのだと感じたのだ。この感じ方が万人に受け入れられないことはわかるが、今でもこの直感を信じている。

そしてクリスティーンの作品はその中でももっともピュアでかっこよく、かつ正しいのだ。これまた理解されていないが、ビデオゲームの中のフェミニズムにもいろいろな立場があり、Tropes vs Women in Video Gamesで有名なAnita Sarkeesianのように既存ゲームの女性の表現を問題にする立場もあれば、クリスティーンのように女性やクイアや様々なセクシャリティをもっと表現していく立場もある。個人的にもビデオゲームにおけるフェミニズムが最も生産になる部分は既存のゲームの女性蔑視表現を取り締まることよりも、ビデオゲームの表現によって女性のエンパワメントを実現することだと思う。

クリスティーンの作品はその意味で極めて有効なものだ。『Digital: A Love Story』ではあからさまではないが、人間の愛という問題をジェンダーとまったくかかわらない部分で描いている。もちろん、それは彼女自身のセクシャリティとAIというものへの無邪気な憧れから生まれたもののように感じるが、単なるストーリーレベルではなく、ビデオゲームにおけるインタラクションへ適切に落とし込んでいる。

さらに『Analogue』ではそのテーマをはっきりと保持しながら、李氏朝鮮時代の男女差別を描くことで、我々の現実への違和感をたくみに描く。ここでも主人公のジェンダーはまったく自由な存在だが、AIに美少女のキャラクターが割り当てられることで、多くの人にジェンダーというものの認識の仕方を強調する。(だが実際に物語においても彼女の創作においても美少女への愛というエロスによって、ある意味この現実批判めいた部分は曖昧なものになっている。まあだから説教臭くなくて良いのだがw)。

表現というものに対するこうしたポジティブな部分は、私には現代のフェミニズムにおいて最も魅力的なものに映る。もちろん、根幹には私個人のパンク的なDIYエチケットがあるが、実際に作られた作品は一般的な水準で楽しめるものであるし、同時にやはり政治的にも正しい。ポリティカルコレクトネスという概念がほぼ表現規制という文脈で使われがちな昨今では、彼女の創作の多様性(新作は異性装者たちクローズドサークルものサスペンスだ)は目を見張るものがある。物事に対する誠実さが作品のつまらなさではなく、魅力に貢献しているというのは感動に値する。

実際に来日した彼女に何度かあっているが、本人は極めて好奇心旺盛なギークガールである。コスプレとセルフィーを愛しつつ、日本のカルチャーを貪欲に吸収する。その半面、とってもシャイで質問に対しては丁寧に考えながら答える。ゲームクリエイターという枠ではなく、創作する人間としての生真面目さ、実直さがとても印象的だった。

思い出というか思いを羅列する形になったが、言わんとしていることは彼女の作品を複数プレイすればわかるだろう。筋が通っているのである。好き嫌いは別として、やりたいことがはっきりしている。しかも、商業的に受け入れられる水準で。もちろん、インディーゲームのブームや現在のクイアやゲイマーのシーンが後押ししたところも多きい。しかしながら、彼女の作品はビデオゲームの歴史において一つのメルクマールとして今後も語り継がれるし、クリエイターとしても素晴らしい作品を残していくことは明らかだろう。

このような形でも彼女の作品に関われたことを誇りに思う。仕事としてもパブリッシャーをおこなっているが、個人としてもこのような才能のあるクリエイターに関われたことは本当にうれしい。より多くの人にプレイしてもらいたい。