Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

私がSRPGに望むもの2

成長要素がSRPGに折り合いが悪かった場合、このジャンルはなにを目指せばいいだろうか。やはり固有のユニットがもつキャラクター性は捨てがたい。さらに言えば、通常のRPGに比べて多くのキャラクターを登場させることが容易だ。この点はもっと注目されるべきだろう。

実際、ファイアーエンブレムにしても通常のRPGを凌駕するキャラクター数が使用可能なユニットとして登場する。スパロボ系はむしろどのキャラクター(ロボ)が登場するかによって人気がかわるくらいであり、まさにキャラクターのラインナップこそすべてのような風采を帯びる。

キャラを豊富に描けれる。これはこれで1つのメリットだ。だが代償として、個々のキャラクターの掘り下げは甘くなる。30人を超すユニットの過去がカットシーンで流れるファイアーエンブレムは悪夢だろう(昨今のファイアーエンブレムはそうでなくとも悪夢だが)。

その代わり、特定の誰かの視点によらず物語を描写する、いわば群像劇的な描写にはSRPGの特性は強力に作用する。そもそもユニットを操作するというインタラクションはRPGのキャラクターを動かすのとは異なった距離感がある。ユニットとプレイヤーの距離感は常に一定であり、たとえ特定のユニットを優遇して成長させようとも、そのユニットがプレイヤーに特別な距離感をもって接近してくるようなことはない。(この点でも昨今のファイアーエンブレムではSRPGにあるまじき禁忌を犯している。マイユニットなる存在によってプレイヤーを強制的にゲーム内世界に引き入れるのだ。だがこの試みが成功したと思われる試しはない。)

このことは群像劇に挑戦したFF6の幾つかのイベントからも逆の方向から示唆される。FF6にはユニットを同時並行的に操作して攻略するイベントが発生する。また戦闘ではないがオペラハウスのイベントではこの形式を利用した物語が描写される。これらのイベントの操作感はまさにSRPG的と言ってよく、FF6が目指した群像劇としてのRPGを体現しているようだ。

ここまでの流れをまとめよう。SRPGは純粋なウォーシミュレーションから差異化する必要からキャラクターにフォーカスが当たる。しかしながらその結果としての成長要素はシミュレーションゲームの本来のあり方とレベルデザインにおいてコンフリクトを起こす。その一方で多数のキャラクターを登場させるという点でSRPGRPGが持ち得る物語の幅を拡張できる。それはしばしば群像劇といったタイプの物語に適している。ではSRPGが描くべき物語はどのようなものなのか、群像劇だとしてどのような群像劇であるのか。

 

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