孤立した楽しみとしての音楽
ふと音楽でしか実現不可能な体験というものについて考えてみる。ゲームや映画ではなく、音楽で。絶対音楽とか抽象表現とか難しいことを抜きにすると、個人的には音楽が「この自分にとって」現実のものとして鳴ることが一番、大きな違いのようだ。たとえ映画やゲームがフィクションの世界に没入している感覚を味あわせてくれても、それはお話として楽しんでいるのはほとんど否定出来ない(フィクションのパラドックスという問題はあるにせよ)。
他方、音楽はなんだか違う。いやただ私が違うものとして体験してきただけなのかもしれない。物語芸術ではないから当然だが、音楽はつねに自分にとっての音楽だ。こっ恥ずかしい言い方すれば、それは自分の人生のサウンドトラックなのだ。
人によってはこれはどうでもいいかもしれないが、自分にとっては重要な違いだ。映画やゲームによって現実の辛さを一時忘れることはできるかもしれないが、音楽のように人生そのもの自分そのもの慰めることはできない。字義通りに音楽は自分を癒やすように思える。
自分は悲しいときによくニール・ヤングを聞く。普通に『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』あたりを。または鬱屈しているときにはシューゲイザーのロックを聞く。今だとJesuを聞いている。
歌詞の内容がよくわからなくても、奏でられるサウンドに自らの波長を合わせる。いや自分の波長に合わせて、それに穏やかに干渉するように音楽を選ぶのだ。いわゆる癒し系音楽とはまったく異なるものなのだが。
そしてたいてい自分自身でなんとなく満足する。音楽を愛するということはどこか引きこもるような部分がある。もちろん、どこかで誰かとつながっていたいような感覚はあるにせよ、孤立した一人として音源というメディアで通してつながっていたい。3次元の世界が複雑すぎて、時間と波だけの感覚で話したいのかもしれない。
*追記:
あ、ゲーム音楽は違うわ。あれは俺がゲームの世界行ってます。ただニンテンドーコアみたいなのは、バグった感じになる。