Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

『Cytus II』における優れた音楽の演出

また『Cytus II』の話をしよう。このゲームが完結するまでは延々と推していくわけだから。

今回は本作の音楽を使った物語演出の妙を紹介しよう。主役となるのはNEKO#ΦωΦ(NEKO)とPAFF(Aroma)だ。メインストーリーでも重要なこの2人は本作では2つのシナリオを軸として扱われ、NEKOは新米コンポーザー時代、NEKO#ΦωΦはストリーマー時代、Aromaは歌姫デビュー時代、PAFFは歌姫として人気絶頂期のシナリオが展開する。そしてこの二人のそれぞれのシナリオはほぼ同一の時間軸で発生している。

今回紹介するのはNEKO#ΦωΦに収録されている『Sunday Night Blues』という曲を使ったとても効果的な演出だ。本楽曲は「療養中と言われている人気歌手PAFFの目撃情報?MONOが秘かに新曲発表?」といった設定の「Marvelous Mix vol.1」というソングパックに収録されており、2018年8月3日にリリースされた。

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穏やかな前奏で始まりながらも、後半からはFuture Bass的なSuper Sawなシンセ、やジャージーハウス的なギシギシ音が入れられる。乾いた鉄琴のような音もFuture Bass、しかもKawaii Future Bass的な感じがある。

ただこの曲、NEKO#ΦωΦ全体の楽曲からするとやや異色に聞こえる。というのは、本作におけるNEKO#ΦωΦの楽曲は、ストリーマーとしてのネタ曲や宣伝しているという設定で収録されている本作と同じくRayarkのゲーム『Sdorica』の曲が中心なのだ。ストリーマーという設定を用いてこういう遊びを行うのはなかなか興味深いが、その中において『Sunday Night Blues』はややシリアスよりかつ、どこか未完成といった印象がある。

実はこの謎はAromaのストーリーを進めると解ける。というのは、本作はNEKO#ΦωΦがPAFFのために作ったデモ楽曲であったことがわかるからだ。

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このログではAromaがNEKOの楽曲を聞いているシーンだが、音楽となっているところをクリックすると『Sunday Night Blues』の断片が再生される。この曲を気に入ったAromaはPAFFとしてぜひともNEKOとコラボしたいと思うのだが、残念ながらこのコラボはNEKOのインターネット上の素行の悪さとPAFFの所属事務所Monoの意向でうやむやとなる。そこでアンロックされるのが、次の曲『Make U Mine』だ。

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あからさまなFuture Bass的なSuper Sawなシンセ、ボーカル、そして後半に展開するジャージーハウス独特のリズムとギシギシ音。この音色を聞けば、本作が『Sunday Night Blues』から派生した楽曲であることは明らかだろう。ただボーカルはどこか頼りなく歌われており、これもまたAromaがPAFFの曲にしようとした仮歌という側面も感じる。

いずれにせよ、『Cytus II』ではこのような音楽表現で物語の演出をうまくするのに長けている。これらの楽曲があったため、プレイヤーはNEKOの音楽能力とAromaがコラボしたかったということ表現され、その後の展開は切ないすれ違いとして認識されるわっけだ。ともあれ、彼女たちがこの場面で一瞬でも邂逅したのは本筋においても重要であり、とくにAromaが自身を取り戻すきっかけをつくるのもNekoだ。だからこそこの『Make U Mine』という曲は重要なんだろう。

ちなみに『Sunday Nighy Blues』は台北のTeru Foxによるもので、『Make U Mine』はJames Landino ft. Jennyによるものだ。このあたりのバラバラの楽曲を演出上にとりいれるのは面白い。

『Cytus II』に感じられるテッド・チャンの影響:AIとダンスの関係

最近、早川書房から出たテッド・チャンの短編集『息吹』をちょくちょくと読んでいるのだが、その中に収録されている「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」という中編小説の中に出てくるエピソードが『Cytus II』に影響を与えているのではないかと思ったので簡単に紹介しておこう。

 『Cytus II』に関しては私がしつこく絶賛して、各所で布教活動しているので、改めて詳しく紹介しないが、SFのストーリーを楽しみながらプレイするリズムゲームである。これだけだとなんか良くわからないと思われるかもしれないが、かなり素晴らしいできのゲームであり、世界観もキャラクターもストーリーもリズムゲームも圧倒的な出来である。詳しい紹介はこちらにまかせる。

さてテッド・チャンの「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は、ディジエントと呼ばれる学習型ペットAIの誕生とそのブームの収束を描いた作品で、AIに対する人間の感情をテーマにした興味深い話だ。その中で主人公のアナはジャックスというAIをペットして引き取ることになるが、このジャックスは学習することで作曲やダンスといったことを学んでいく。これらの描写は本筋には関わらないが、読者がAIという存在やキャラクターに親近感を持つきっかけを作り、ディジエントの可愛らしさと儚さのようなものをうまく形作っているように感じる。

そんなジャックスが仮想空間で歌と踊りを披露する場面が以下。

ジャックスにとっては渡りに舟だった。持ち歌のひとつ、「三文オペラ」の劇中歌「マック・ザ・ナイフ」をたちまち朗々と歌い出す。歌詞はぜんぶ覚えているものの、歌うメロディのほうは、よくいっても、原曲にまあまあ近いという程度だ。ジャックスは、歌と同時に、この曲に合わせて自分で振り付けを考えたダンスを披露した。ほとんどは大好きなインドネシアのヒップホップのビデオクリップから借りてきたポーズと手真似をつなぎ合わせたものだった。(131)

ジャズ・スタンダードの「マック・ザ・ナイフ」をインドネシアのヒップホップの振り付けで踊るというのは、なんとも奇妙かもしれないが、未来の混淆した文化を感じないわけではない。いずれにせよ、このエピソードは本筋には関わらないけど、極めて微笑ましく、ジャックスの性格をよく表している。

ではこれが『Cytus II』とどんな関係があるのか?

『Cytus II』の世界にも、人間だけではなくAIやロボット(アンドロイド)は多数登場する。その世界観は一言で言えばサイバーパンクであり、AIやロボットだけではなく、神経ネットワーク、隔離された人工環境、記憶操作など数多くのSFガジェットが登場する。中でも主要キャラクターのひとりであるROBO_Headは見た目からして、オールドスクールなロボットであり、中身は完全なAIとなって登場する。彼がなぜか自我に目覚めたような行動をとっており、あろうことか音楽を作曲してネットワークに投稿したり、ライブを企画したり、アーティスト/ストリーマーとして活動しているのだ。

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そんな奇妙なROBO_Headを作り出したのは、もうひとりの主要キャラクターの天才少女NORA。彼女の来歴についてはここでは深く触れないが、ともかく彼女は天才的なエンジニアリングでROBO_Headを作り上げ、自我のようなものを獲得し、作曲さえ始めるようになった(本作の主要キャラクターの多くはミュージシャンであり、何らからの意味で音楽と関係がある)。そのROBO_Headが最初に作ったとされる音楽が「Jakarta Progression」だ。

 

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タイトルの通り、インドネシアのトラックメイカーKURORAKによるユニークなダンスナンバーだ。これはヒップホップではないが、極めて未来的なインドネシアの音楽であることは間違いないが、興味深いのは次のくだりである。

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風邪をひいたNORAはROBO_Headに音楽をリクエストするが、そのときに選ぶのがこの「Jakarta Progression」。最初は「《Jakarta PROGRESSION》はリズムが複雑で、激しいため、病人にはふさわしくありません。」とロボットらしく振る舞うが、どうしても聞きたいというNORAに折れて演奏するROBO_Headは激しくダンスしてしまう。自分でも何が起こったのかわからないROBO_Head。それに対してのNORAの反応はというと……。

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本作においてROBO_Headがダンスを披露することは珍しくはないが、人前で見せたのはおそらくこれが初めてだろう。感情の高ぶりを踊りで表現するというのは極めて人間らしい行動であるし、これ自体もSFのテンプレート感はあるが、先にのインドネシアの線も含めて、「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」との類似性やリファレンスを読み取るのはやりすぎだろうか?

直接的な関連性はないとしても、本作にはその他にもSF小説や映画からの影響は多く、シナリオライターテッド・チャンを読んでいた可能性自体は低くない。いずれにせよ、AIが人間らしい行動を取るとはどういうことかに関して、まったく同じ描写を行っていることは間違いない。

『Cytus II』全体からは音楽と感情が人間とAIにとってどういう意味があるのかというテーマが見え隠れしており、このエピソードは極めてテンプレート的な設定ながらも非常に微笑ましいものに仕上がっている。そして、実際にこの「Jakarta Progression」をリズムゲームとしてプレイするという体験ができるという点はゲームならではの良さであり、NORAとROBO_Headの気持ちを我々は内側から理解することができるのだ。この点に関しては以前のエントリーを読んでほしい。

shinimai.hatenablog.com

その他にも興味深いエピソードはいっぱいある。ぜひともSF好きはプレイしてほしい。

 

『Cytus II』音楽を理解し、テキストを読むということ:ただそれだけの威力

『Cytus II』というゲームが好きだ。だいぶ好き好き言っているから、聞き飽きたかもしれないけど、これはもう愛してるというほど好きだと思う。

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 このゲームはリズムゲームとノベルゲームを交互にやるような変なゲームではあるんだけど、それぞれ優れているのは当然として、どうしてノベルゲームの合間にリズムゲームをやらなきゃいけないのか(もしくは、リズムゲームの合間にノベルゲームをやらなきゃいけないのか)という明白な問題を抱えているような気がする。

普通の人にとってはそれはなんの関係もない、非本質的なつながりだからだ。「リズムゲームでノベルパートを開放して読む?なにそれ、面白いの?」

確かにそうかもしれない。だけど、やるとそうでもない。いや、少なくとも音楽を愛する人間にとってこれは必然的なんだと思わせるパワーと繊細さがこの作品にあるのだ。

しばらく、この理由をうまく説明できなかったけど、最近、ちょっとわかってきた。

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本作の楽曲は複数のキャラクターによってソートされており、基本的に彼らの「楽曲」(実際には複数のアーティストのライセンス曲や書下ろし曲なんだが、設定上は架空のアーティストの楽曲)として提示されている。当然、アーティストなんだから曲を作ったときの気持ちや考えはあるわけで、これらのキャラクターごとのサウンドトラックは彼らの心象風景を表している、

翻ってリズムゲームとしての本作はなかなか良くできており、単なる目押しでボタンを押すのではなく、楽曲の理解(リズムや拍子、特定の楽器音への注目など)を深めることで攻略するようにできている。リズムゲームとしての素晴らしさはまた別のところで説明したい気もするが、ともかく、ノベルパートをアンロックするにはある程度、これらの楽曲を聞き込み、理解する必要がある。

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それでは、音楽を理解するとはどういうことなのか?それはキャラクターたちの感情に共鳴し、歌詞に意味を見出し、同じ心象風景を見ることだ。もちろん、それはテキストのようなはっきりとした形では提示されないが、音楽を愛する人にとってはごく自然なコミュニケーションである。そしてこれらの理解によって、ノベルパートのテキストに彩りが重ねられる。

そのため、たとえ陳腐なシナリオや言い回しがあっても本作のストーリーは素晴らしくエモーショナルだ。端的にエモいというやつだ(この言葉は嫌いだが、わかりやすくいうとそうだ)。実際には本作のテキスト、シナリオ、ダイアログはノベルゲーム単体としてもかなりよくできており、ローカライズも含めて、最高峰のものだと思う。それを音楽を通したグラスで眺めると、心の中でゲームでしか見たことがない物語と世界が立ち上がってくるのだ。

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つまりはそういうこと。音楽を聞き込み、テキストを読む。ただそれだけといえばそれだけかもしれないが、それがいかに重要かを教えてくれる素晴らしいゲームが『Cytus II』である。

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R.I.P. Sherry

※極めて蛇足的なことだが、音楽の水準も本作はリズムゲームとしてもずば抜けており、ここに集められた楽曲は一つの価値観を示しており、文化を作るものだと信じている。

ゲームライターに求められるもの

ゲームライターに必要な教養に関する議論が話題になっていたことがあった。(個人的に)私が(編集者)としてゲームライターに求めているものは何かといえば、それは「注目しているシーンがあること」な気がする。

話題になってた「教養」の話は、もともとは「基礎教養的ゲーム」、つまり「教科書」的に「これやっておかなきゃ駄目でしょ」みたいなものだったと思う。この「教養」の問題はだいたい2点あって、「そもそも教科書的な作品のリストがはっきりしない」と「そもそも現実的にプレイするのが不可能だ」ということだ。これ自体はそのとおりで、解決のためにゲーム業界の人々は教科書みたいなものをもっと作る必要があるし、ゲームのアーカイブ事業ももっと進める必要がある。

ただどんなに正統なゲームの歴史教科書があったり、過去のゲームにアクセスすることができたりしても、私がゲームライターに求めるものは、そういった類の「教養」じゃない気がする。ゲーム研究者みたいな人には有用だし、もちろんゲームライターにとっても重要な知識となると思うけど。

じゃあ、何が必要かというと、冒頭の「注目しているシーンがあること」である。これは何かというと、個々のゲームライターが活躍するためには、何よりも自分が面白いと思っているゲーム、そしてそのゲームを取り巻く環境に対する意識が必要なんじゃないかと思う。そもそも、いくら知識があってもゲームを楽しめなくなったらゲームライターとして面白くないし、そういう人にわざわざ仕事も頼みたくない。さらに編集者としての目線からは、漠然と「ゲームが好きです」というよりも、「今、このゲームが熱いんです!」といい人の方が仕事が頼みやすい。

まあもうこれは教養とかそういう話じゃなくて、単なる熱意とか根性論に近いんですが、そう思ってしまったのは事実です。逆にいえば、「今、このゲームが熱いんです!」とか「このゲームをやっている人が熱いんです!」とか「このゲーセンが熱いんです!」とかそういうの常にある人は、それは才能ですから、ぜひともゲームライターに挑戦してみてください。

(もちろん、文章書くとか、現実的な仕事の諸能力は必要だよーー)

(ドラフト)ビデオゲームの美的判断における内在的質と外在的質について

別に論文書くとかはないかもしれないが、とりあえず今日思いついたことをメモ。このふたつの区別については、我々ゲームライターは実践の場で取り組むべき問題であり、一定の有用性もあると思われる。

1. 問題の所在

我々ゲームライターはビデオゲームを評価する際に、様々な部分を考慮に入れる。ゲームデザインレベルデザイン、ビジュアル、キャラクター、背景、アニメーション、ストーリー、バグの少なさ、UI、チュートリアル、価格とボリューム、マルチプレイの品質(いわゆるネットコード)、マルチプレイのユーザーの規模、ゲームの難易度のバランスなどなど。もちろん、これらの諸要素すべてを考慮に入れることは少なく、アドベンチャーゲームならばストーリーが重視され、MOBAのようなタイトルならマルチプレイの品質は重視される。またライターによっても、どれを評価するかは異なってくるだろう。

つまり、ビデオゲームのレビューという行為にはこれらの要素の個々の美的判断を行う以前に、どの要素を判断すれば良いかという問題がある。これはしばしばライターを悩ませる問題だ。以前、私は「ゲームレビューにまつわる5つの問題 - IGN JAPAN」という記事で部分的にこの問題を取り上げていたが、直接、検討したことがなかった。よってここでその問題を考えてみたい。

先に問題の明示化とそれへの解答を提示したい。

問題:ビデオゲームの美的判断において、重視されるべき要素はなにか?

解答:ビデオゲームの美的判断において、重視されるべき性質はビデオゲームの内在的性質である。

以下では以上の仮説に従って、ビデオゲームの内在的性質と外在的性質を説明し、なぜ内在的性質がビデオゲームの美的判断において重視され、外在的性質は重視されないかを説明したい。

2. 美的判断とは

(ここはほぼFrank Sibleyの立場から説明すればいいんじゃないかと検討している)

3. ビデオゲームの内在的性質と外在的性質

とりあえず分類すると……

内在的性質:ゲームデザインレベルデザイン、ビジュアル、キャラクター、背景、アニメーション、ストーリー、バグの少なさ、UI、チュートリアルマルチプレイの品質(いわゆるネットコード)、ゲームの難易度のバランス

外在的性質:価格とボリューム、、マルチプレイのユーザーの規模

以上の分類はそれなりに理解可能なものだと思うが、議論としては明確に示す必要があると思われる。内在的性質に関しては、再びFrank Sibleyの立場に立てば、作品そのものに属している非美的性質とそれに依存する美的性質の集合として考えれば良いと思う。外在的性質をうまくくくるのはなかなか難しいのだが、いわゆる文脈的性質、関係性質としてくくることが可能ではないかと思っている(値段やマルチプレイのユーザーの数が文脈なのか関係なのかよくわからない。もしかして様相を利用したりする必要があるのかもしれない。このあたりは哲学プロパーの人に聞いてみたい気がする)。

ちなみにビデオゲームのレビューという実践には必ずしも、内在的性質だけが重要ではなく、ときに外在的性質に触れることもある。これはレビューが必ずしも美的判断だけを行っているわけではないということに起因すると思われる。

4. 美的性質とビデオゲームの難易度

3までで当初の問題は解決されたと思う。ここではこの仮説から帰結するいくつかの興味深い事実について紹介したい。

ひとつ思いついたのは、「ビデオゲームの難易度はそれ自体が美的性質、もしくはなんらかの美的性質を決定づける内在的性質である」という主張だ。別の言い方をすると「あるビデオゲームの難易度が変化すると、そのビデオゲームの美的性質は変化し、それに対する美的判断も変化する」ということである。

念頭に置いている具体例は、『Cuphead』の難易度に関する議論である。しばしば、本作の難易度は度を越したものであり、より多くの人間がそのビデオゲームを楽しむために、もっとやさしい難易度を持つべきだと主張された。

ところが、ここでの仮説によれば、難易度は内在的性質であり、それは美的性質をなんらかの形で決定するため、結果として美的判断も変わりうる。

もうひとつの議論を呼ぶ帰結は、マルチプレイのユーザーが少ないゲームは、それ自体として美的な欠点ではないということである。ユーザーが少ない理由はもちろんそのゲームの美的な欠点に由来するかもしれないが、ユーザーが少ないこと自体は外在的性質である。ゆえに、この世界には不幸にもマルチプレイが過疎ってしまったが、実際には素晴らしいゲームはあるということになるだろう。

今後の方針

自分で書いてて、そこまで深い問題でも無い気がしてきたので、なんか盛り上がったらまた書こうとは思う。どちらかと言えば、4みたいな事例に対してはっきりとした意見を持ちたいというモチベーションが中心な気がするので、具体的な事例として思いつくことがあったら書き足そう。

やはりSTEINS;GATEは面白い

アニメ版の『シュタインズ・ゲート ゼロ』が始まった。ゲームの方はやってないが、Steam版がこの後出るらしいので、それを待つまでアニメを見ようと思う。大体、中盤からゲームやって、アニメと同時にfinishするのがいいのかもしれない。

それにしてもだな。それにしてもこの『ゼロ』の設定が素晴らしいと思うんだ。細かいところはこっちの記事でも読んで欲しい。なかなかうまくまとまっている。

TVアニメ『シュタインズ・ゲート ゼロ』放送開始直前!ゲーム版シュタゲゼロの紹介と、アニメ版シュタゲゼロの見どころ

ポイントはというと……岡部倫太郎と出会っていない牧瀬紅莉栖がAIとなって登場するというところ。これは有り体に言えば、記憶喪失になった恋人とのラブロマンスっていうかなりベタな話。だけどAIっていう設定になるだけで、非常にSFとしても興味深いし、ベタさをうまく隠している。相手は知らないけど、自分はものすごい記憶(それも常人を超えた世界線をさまよった記憶を持っている)恋人に対する思いというのは、それ自体ベタにエモいものであるけど、AIっていうことでいろいろ思考実験になり、そのベタさは消え、純粋に恋と記憶について考察することができる。

例えば、牧瀬紅莉栖自体は美人だし、頭いいし、実験大好きっ子だし、普通の男が好きになるには十分なのだが、岡部倫太郎が彼女を愛しているのは、一重にあの世界線において唯一の理解者であったからだろう(鈴羽とかもそうなり得たが、彼女には彼女の目的があったからちょっとピュアな関係ではない)。ぶっちゃけ、このプロットからはたとえ、牧瀬紅莉栖と岡部倫太郎が男女の関係でなくてもそれ相応の信頼関係、いやたとえ同性であって愛情関係にすら至ってもおかしくないとすら思う(その点ではまゆしぃはおかりんの子供のような存在で無条件に守るものであり、紅莉栖との間に成立する信頼や愛情とは異なる)。

今回はそういった共有した体験が一方にはかけているが、それでも岡部倫太郎は彼女を愛して信頼するのだろうか。物語としてはもちろんそうなるはずだろう(違うかもしれないけど…)。ではそこで彼が彼女を信頼する理由は何だろう。事実として起こってない世界線である以上、それは経験というより牧瀬紅莉栖という人格への信頼、もしくは愛情となるのだろうか。しかも意識があるのか定かではないAI、つまりはある種の可能性への愛みたいなものがこの話のテーマになるのだろうか。

こうして考えるとこの形而上学的な設定のロマンスはなかなか興味深い。愛と恋とか無視してもなかなか興味深く、可能性に対する信頼みたいな点で考えると普通に実存主義のような話にも思えてくる。

ただこういったピュアな意味でのロマンスと思考実験の特徴は実は前作から一貫していて、この点こそが私が本作をすごく評価しているポイントだ。以前、適当に書いたのは以下だから適当に読んでくれ。

shinimai.hatenablog.com

まあ実際、見て(プレイして)みた結果、買いかぶりかもしれないが、やはり設定だけでも只者ではないなっていう感じがする。この設定自体はゲームやアニメより先にスピンオフ版の小説『STEINS;GATE 閉時曲線のエピグラフ』を元にしている(というか原作のようで)らしくて、たきもとまさしというライターの方のものらしい。『メモリーズオフ』なんかにも関わっているようなので、今後、ちょっと注目してみたい才能だ。

Bandcampの日本のkawaii音楽シーン特集翻訳:アーティスト紹介① Snail's House、Yunomi、YUC'e

 前回、冒頭のイントロダクションを翻訳したところ、結構な数のアクセスがあったから、個別アーティストの紹介も翻訳しようと思う。と思って、やったところ結構なボリュームがあり、なかなかこのライターさん良く聴き込んで日本の音楽シーンも深くしっており、時間がかかりました。とりあえずはKawaiiシーンで一番重要な最初の3アーティスト、Snail's House、Yunomi、YUC'eの方を訳したので以下で公開します。

元記事はこちら

daily.bandcamp.com

 Snail’s House

ショパンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンが別け隔てなく流れるような音楽一家で育った氏家は、家をよく空ける父親から様々な楽器を譲り受けたそうだ。「だけど、僕はそれらを演奏することはなかった」と彼は言う。「2011年、上原ひろみを聞くまでは、自身の音楽を作ることを試さなかったんだ。」彼は自由時間に音楽室を利用させてくれた高校の先生と、ニンテンドーDSの音楽制作ソフトに助けられながら、試行錯誤で音楽制作を行っていった。そしてニュージーランドに留学しているときは、父親から送られたラップトップを使用して楽曲を作り始めた。「そのPCは壊れていたんだ。だから父はその後、6年使用したPCを送ることになった。」

 

時代遅れのテクノロジーは氏家に速く制作する手段を教えてくれた。というのも、彼のコンピュータは2時間程度でオーバーヒートしてしまうからだ。「頭に浮かんだものをすぐにアウトプットすることができるよ。音楽を生み出すとき、例えば……このメロディにしよう、OKっていう感じで。」最新のSnail’s Houseの作品Ordinary Songs 4では、歪んだドラムといった特定の要素を引き伸ばすことを追求している。「My Holidayは最も長くしている。キックの音は実際にはベースとして機能しているんだ。めちゃくちゃに圧縮したよ。ミックスするのにとても手を焼いた。」

 

「Ordinary Songs 4では、いかにキュートな楽曲をぜんぜんキュートじゃないサウンドで描くかを追求したかったんだ」と彼は言う。歪んだドラムや「アーメンブレイク」をいかに使ったかについて彼が話すのを聞くと、一見してkawaii音楽がいかにドッキリさせるような効果を持つのかが明らかになる。「まず歪んだサウンドを作るところから始めた。普通の人ならビビっちゃうようなやつをね。そして、自らの耳を痛めつけるような音、もしくはジャングルのリズムのようなそれ自体はキュートではないサウンドをキュートなものにした。」

 Yunomi

Yunomiの過剰なサウンドを形付けるために、J-popは重要な役割を持っていた。「 PerfumeCapsuleなどの中田ヤスタカさんの音楽に影響を受けました。もちろん、SkrillexのようなEDMブームのアーティストもそうですが」と彼は話す。彼がそれらのアーティストを発見するのと同時に、Yunomiは最初期の創作物のいくつかに陽気な歌を添える気鋭のパフォーマーであるNicamoqに出会った。日本の伝統楽器とフューチャーベースをミックスしたアイドルプロジェクトBPM15Qのサウンドを作り上げることで、彼はそれらの影響に返答したのであった。

 

「端的に言って、それらが鳴らすサウンドが好きなんです」と彼は日本の伝統楽器について語る。「やっぱり僕は日本の伝統を評価したい。もしkawaiiについて考えるとしたら、やっぱり『日本って何だろう?』と考えるじゃないのかな。だから日本の要素を付け加えた。」Oedo Controllerのようなハードなナンバーでは、三味線のパッセージからいきなり拳を突き上げるようなタイムストレッチサンプルが始まることで、その特徴を加えている。

 

アイドルグループのCY8ERのメインプロデューサーをつとめることを含め、Yunomiはエネギッシュなセットを日本中でプレイし、J-pop産業においてより多くの仕事を見つけることで、昨年はより有名な存在になった。さらに彼はMiraicha Records(文字通り「未来のお茶レコード」) という新しいレーベルを共同設立し、よりキュートな要素と共にダンスよりのサウンドを際立たせた。だが彼は決定的に少しラフなサウンドを好む。「僕たちはコンピュータで完璧なインストゥルメンタルトラックを作ることができる。だから逆のことに魅力を感じるし、それを試してみたいんだ。これは僕のライフワークだね。」

YUC’e
YUC'e

YUC’eはYunomiと共にMiraicha Recordsの共同設立者である。彼女はフューチャーベースサウンドにフォーカスしたできたてのレーベルにより予測不可能なスタイルをもたらしている。東京を拠点としながら、2016年にリリースされたFuture Candyによって彼女は国内外の注目を集めることになった。この楽曲は現代的なkawaiiサウンドの決定的な事例であろう。そのアートワークと歌詞は甘いお菓子を礼賛しており、楽曲はヒラヒラとしたシンセ音とYUC'e自身のハイピッチな歌によって幕を開ける。そしてその2、3秒後、楽曲はピッチが上げられたボーカルサンプルと踊る気満々のベースで引き裂かれる。楽曲の終わりでYUC’eの狂気じみたボーカルが畳み掛ける、その激しさは絶頂を迎える。

 

この骨折しそうなほど激しいアプローチは、彼女のフルデビュー作Future Cakeのすべてのトラックに満ちている。さらにデジタルエイジのスウィングである“Night Club Junkie”やゆらゆら揺れるダンス・ポップの“Tick Tock”といった楽曲で、彼女はさらに意表を突いたアプローチを行っている。十分に聴き込めば、Future Cakeは日本のシブヤ系時代の楽曲をインターネット世代へとアップデートしているように聞こえ始める。しかしながら、彼女がどの方向性を選ぼうとも、YUC'eは「キュート」なサウンドという伝統的なアイデアを切り刻み、よりハードエッジで常に変わっていくものへと再編集しているのだ。

Ujicoとかのインタビューはブログレベルでもあったと思うけど、こうして世界に紹介されるのはなかなか素晴らしいね。でもまだまだ日本でのリスナーは足りてないと思うんだ。個人的にはやっぱYUC'eの最初のアルバムすげーわって再認識しました。 「Future Cakeは日本のシブヤ系時代の楽曲をインターネット世代へとアップデートしている」っていうまさに!なボトムラインはしびれるね。