Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

『Cytus II』音楽を理解し、テキストを読むということ:ただそれだけの威力

『Cytus II』というゲームが好きだ。だいぶ好き好き言っているから、聞き飽きたかもしれないけど、これはもう愛してるというほど好きだと思う。

play.google.com

 このゲームはリズムゲームとノベルゲームを交互にやるような変なゲームではあるんだけど、それぞれ優れているのは当然として、どうしてノベルゲームの合間にリズムゲームをやらなきゃいけないのか(もしくは、リズムゲームの合間にノベルゲームをやらなきゃいけないのか)という明白な問題を抱えているような気がする。

普通の人にとってはそれはなんの関係もない、非本質的なつながりだからだ。「リズムゲームでノベルパートを開放して読む?なにそれ、面白いの?」

確かにそうかもしれない。だけど、やるとそうでもない。いや、少なくとも音楽を愛する人間にとってこれは必然的なんだと思わせるパワーと繊細さがこの作品にあるのだ。

しばらく、この理由をうまく説明できなかったけど、最近、ちょっとわかってきた。

www.youtube.com

本作の楽曲は複数のキャラクターによってソートされており、基本的に彼らの「楽曲」(実際には複数のアーティストのライセンス曲や書下ろし曲なんだが、設定上は架空のアーティストの楽曲)として提示されている。当然、アーティストなんだから曲を作ったときの気持ちや考えはあるわけで、これらのキャラクターごとのサウンドトラックは彼らの心象風景を表している、

翻ってリズムゲームとしての本作はなかなか良くできており、単なる目押しでボタンを押すのではなく、楽曲の理解(リズムや拍子、特定の楽器音への注目など)を深めることで攻略するようにできている。リズムゲームとしての素晴らしさはまた別のところで説明したい気もするが、ともかく、ノベルパートをアンロックするにはある程度、これらの楽曲を聞き込み、理解する必要がある。

www.youtube.com

それでは、音楽を理解するとはどういうことなのか?それはキャラクターたちの感情に共鳴し、歌詞に意味を見出し、同じ心象風景を見ることだ。もちろん、それはテキストのようなはっきりとした形では提示されないが、音楽を愛する人にとってはごく自然なコミュニケーションである。そしてこれらの理解によって、ノベルパートのテキストに彩りが重ねられる。

そのため、たとえ陳腐なシナリオや言い回しがあっても本作のストーリーは素晴らしくエモーショナルだ。端的にエモいというやつだ(この言葉は嫌いだが、わかりやすくいうとそうだ)。実際には本作のテキスト、シナリオ、ダイアログはノベルゲーム単体としてもかなりよくできており、ローカライズも含めて、最高峰のものだと思う。それを音楽を通したグラスで眺めると、心の中でゲームでしか見たことがない物語と世界が立ち上がってくるのだ。

www.youtube.com

つまりはそういうこと。音楽を聞き込み、テキストを読む。ただそれだけといえばそれだけかもしれないが、それがいかに重要かを教えてくれる素晴らしいゲームが『Cytus II』である。

f:id:shinimai:20191119235910p:plain

R.I.P. Sherry

※極めて蛇足的なことだが、音楽の水準も本作はリズムゲームとしてもずば抜けており、ここに集められた楽曲は一つの価値観を示しており、文化を作るものだと信じている。

ゲームライターに求められるもの

ゲームライターに必要な教養に関する議論が話題になっていたことがあった。(個人的に)私が(編集者)としてゲームライターに求めているものは何かといえば、それは「注目しているシーンがあること」な気がする。

話題になってた「教養」の話は、もともとは「基礎教養的ゲーム」、つまり「教科書」的に「これやっておかなきゃ駄目でしょ」みたいなものだったと思う。この「教養」の問題はだいたい2点あって、「そもそも教科書的な作品のリストがはっきりしない」と「そもそも現実的にプレイするのが不可能だ」ということだ。これ自体はそのとおりで、解決のためにゲーム業界の人々は教科書みたいなものをもっと作る必要があるし、ゲームのアーカイブ事業ももっと進める必要がある。

ただどんなに正統なゲームの歴史教科書があったり、過去のゲームにアクセスすることができたりしても、私がゲームライターに求めるものは、そういった類の「教養」じゃない気がする。ゲーム研究者みたいな人には有用だし、もちろんゲームライターにとっても重要な知識となると思うけど。

じゃあ、何が必要かというと、冒頭の「注目しているシーンがあること」である。これは何かというと、個々のゲームライターが活躍するためには、何よりも自分が面白いと思っているゲーム、そしてそのゲームを取り巻く環境に対する意識が必要なんじゃないかと思う。そもそも、いくら知識があってもゲームを楽しめなくなったらゲームライターとして面白くないし、そういう人にわざわざ仕事も頼みたくない。さらに編集者としての目線からは、漠然と「ゲームが好きです」というよりも、「今、このゲームが熱いんです!」といい人の方が仕事が頼みやすい。

まあもうこれは教養とかそういう話じゃなくて、単なる熱意とか根性論に近いんですが、そう思ってしまったのは事実です。逆にいえば、「今、このゲームが熱いんです!」とか「このゲームをやっている人が熱いんです!」とか「このゲーセンが熱いんです!」とかそういうの常にある人は、それは才能ですから、ぜひともゲームライターに挑戦してみてください。

(もちろん、文章書くとか、現実的な仕事の諸能力は必要だよーー)

(ドラフト)ビデオゲームの美的判断における内在的質と外在的質について

別に論文書くとかはないかもしれないが、とりあえず今日思いついたことをメモ。このふたつの区別については、我々ゲームライターは実践の場で取り組むべき問題であり、一定の有用性もあると思われる。

1. 問題の所在

我々ゲームライターはビデオゲームを評価する際に、様々な部分を考慮に入れる。ゲームデザインレベルデザイン、ビジュアル、キャラクター、背景、アニメーション、ストーリー、バグの少なさ、UI、チュートリアル、価格とボリューム、マルチプレイの品質(いわゆるネットコード)、マルチプレイのユーザーの規模、ゲームの難易度のバランスなどなど。もちろん、これらの諸要素すべてを考慮に入れることは少なく、アドベンチャーゲームならばストーリーが重視され、MOBAのようなタイトルならマルチプレイの品質は重視される。またライターによっても、どれを評価するかは異なってくるだろう。

つまり、ビデオゲームのレビューという行為にはこれらの要素の個々の美的判断を行う以前に、どの要素を判断すれば良いかという問題がある。これはしばしばライターを悩ませる問題だ。以前、私は「ゲームレビューにまつわる5つの問題 - IGN JAPAN」という記事で部分的にこの問題を取り上げていたが、直接、検討したことがなかった。よってここでその問題を考えてみたい。

先に問題の明示化とそれへの解答を提示したい。

問題:ビデオゲームの美的判断において、重視されるべき要素はなにか?

解答:ビデオゲームの美的判断において、重視されるべき性質はビデオゲームの内在的性質である。

以下では以上の仮説に従って、ビデオゲームの内在的性質と外在的性質を説明し、なぜ内在的性質がビデオゲームの美的判断において重視され、外在的性質は重視されないかを説明したい。

2. 美的判断とは

(ここはほぼFrank Sibleyの立場から説明すればいいんじゃないかと検討している)

3. ビデオゲームの内在的性質と外在的性質

とりあえず分類すると……

内在的性質:ゲームデザインレベルデザイン、ビジュアル、キャラクター、背景、アニメーション、ストーリー、バグの少なさ、UI、チュートリアルマルチプレイの品質(いわゆるネットコード)、ゲームの難易度のバランス

外在的性質:価格とボリューム、、マルチプレイのユーザーの規模

以上の分類はそれなりに理解可能なものだと思うが、議論としては明確に示す必要があると思われる。内在的性質に関しては、再びFrank Sibleyの立場に立てば、作品そのものに属している非美的性質とそれに依存する美的性質の集合として考えれば良いと思う。外在的性質をうまくくくるのはなかなか難しいのだが、いわゆる文脈的性質、関係性質としてくくることが可能ではないかと思っている(値段やマルチプレイのユーザーの数が文脈なのか関係なのかよくわからない。もしかして様相を利用したりする必要があるのかもしれない。このあたりは哲学プロパーの人に聞いてみたい気がする)。

ちなみにビデオゲームのレビューという実践には必ずしも、内在的性質だけが重要ではなく、ときに外在的性質に触れることもある。これはレビューが必ずしも美的判断だけを行っているわけではないということに起因すると思われる。

4. 美的性質とビデオゲームの難易度

3までで当初の問題は解決されたと思う。ここではこの仮説から帰結するいくつかの興味深い事実について紹介したい。

ひとつ思いついたのは、「ビデオゲームの難易度はそれ自体が美的性質、もしくはなんらかの美的性質を決定づける内在的性質である」という主張だ。別の言い方をすると「あるビデオゲームの難易度が変化すると、そのビデオゲームの美的性質は変化し、それに対する美的判断も変化する」ということである。

念頭に置いている具体例は、『Cuphead』の難易度に関する議論である。しばしば、本作の難易度は度を越したものであり、より多くの人間がそのビデオゲームを楽しむために、もっとやさしい難易度を持つべきだと主張された。

ところが、ここでの仮説によれば、難易度は内在的性質であり、それは美的性質をなんらかの形で決定するため、結果として美的判断も変わりうる。

もうひとつの議論を呼ぶ帰結は、マルチプレイのユーザーが少ないゲームは、それ自体として美的な欠点ではないということである。ユーザーが少ない理由はもちろんそのゲームの美的な欠点に由来するかもしれないが、ユーザーが少ないこと自体は外在的性質である。ゆえに、この世界には不幸にもマルチプレイが過疎ってしまったが、実際には素晴らしいゲームはあるということになるだろう。

今後の方針

自分で書いてて、そこまで深い問題でも無い気がしてきたので、なんか盛り上がったらまた書こうとは思う。どちらかと言えば、4みたいな事例に対してはっきりとした意見を持ちたいというモチベーションが中心な気がするので、具体的な事例として思いつくことがあったら書き足そう。

やはりSTEINS;GATEは面白い

アニメ版の『シュタインズ・ゲート ゼロ』が始まった。ゲームの方はやってないが、Steam版がこの後出るらしいので、それを待つまでアニメを見ようと思う。大体、中盤からゲームやって、アニメと同時にfinishするのがいいのかもしれない。

それにしてもだな。それにしてもこの『ゼロ』の設定が素晴らしいと思うんだ。細かいところはこっちの記事でも読んで欲しい。なかなかうまくまとまっている。

TVアニメ『シュタインズ・ゲート ゼロ』放送開始直前!ゲーム版シュタゲゼロの紹介と、アニメ版シュタゲゼロの見どころ

ポイントはというと……岡部倫太郎と出会っていない牧瀬紅莉栖がAIとなって登場するというところ。これは有り体に言えば、記憶喪失になった恋人とのラブロマンスっていうかなりベタな話。だけどAIっていう設定になるだけで、非常にSFとしても興味深いし、ベタさをうまく隠している。相手は知らないけど、自分はものすごい記憶(それも常人を超えた世界線をさまよった記憶を持っている)恋人に対する思いというのは、それ自体ベタにエモいものであるけど、AIっていうことでいろいろ思考実験になり、そのベタさは消え、純粋に恋と記憶について考察することができる。

例えば、牧瀬紅莉栖自体は美人だし、頭いいし、実験大好きっ子だし、普通の男が好きになるには十分なのだが、岡部倫太郎が彼女を愛しているのは、一重にあの世界線において唯一の理解者であったからだろう(鈴羽とかもそうなり得たが、彼女には彼女の目的があったからちょっとピュアな関係ではない)。ぶっちゃけ、このプロットからはたとえ、牧瀬紅莉栖と岡部倫太郎が男女の関係でなくてもそれ相応の信頼関係、いやたとえ同性であって愛情関係にすら至ってもおかしくないとすら思う(その点ではまゆしぃはおかりんの子供のような存在で無条件に守るものであり、紅莉栖との間に成立する信頼や愛情とは異なる)。

今回はそういった共有した体験が一方にはかけているが、それでも岡部倫太郎は彼女を愛して信頼するのだろうか。物語としてはもちろんそうなるはずだろう(違うかもしれないけど…)。ではそこで彼が彼女を信頼する理由は何だろう。事実として起こってない世界線である以上、それは経験というより牧瀬紅莉栖という人格への信頼、もしくは愛情となるのだろうか。しかも意識があるのか定かではないAI、つまりはある種の可能性への愛みたいなものがこの話のテーマになるのだろうか。

こうして考えるとこの形而上学的な設定のロマンスはなかなか興味深い。愛と恋とか無視してもなかなか興味深く、可能性に対する信頼みたいな点で考えると普通に実存主義のような話にも思えてくる。

ただこういったピュアな意味でのロマンスと思考実験の特徴は実は前作から一貫していて、この点こそが私が本作をすごく評価しているポイントだ。以前、適当に書いたのは以下だから適当に読んでくれ。

shinimai.hatenablog.com

まあ実際、見て(プレイして)みた結果、買いかぶりかもしれないが、やはり設定だけでも只者ではないなっていう感じがする。この設定自体はゲームやアニメより先にスピンオフ版の小説『STEINS;GATE 閉時曲線のエピグラフ』を元にしている(というか原作のようで)らしくて、たきもとまさしというライターの方のものらしい。『メモリーズオフ』なんかにも関わっているようなので、今後、ちょっと注目してみたい才能だ。

Bandcampの日本のkawaii音楽シーン特集翻訳:アーティスト紹介① Snail's House、Yunomi、YUC'e

 前回、冒頭のイントロダクションを翻訳したところ、結構な数のアクセスがあったから、個別アーティストの紹介も翻訳しようと思う。と思って、やったところ結構なボリュームがあり、なかなかこのライターさん良く聴き込んで日本の音楽シーンも深くしっており、時間がかかりました。とりあえずはKawaiiシーンで一番重要な最初の3アーティスト、Snail's House、Yunomi、YUC'eの方を訳したので以下で公開します。

元記事はこちら

daily.bandcamp.com

 Snail’s House

ショパンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンが別け隔てなく流れるような音楽一家で育った氏家は、家をよく空ける父親から様々な楽器を譲り受けたそうだ。「だけど、僕はそれらを演奏することはなかった」と彼は言う。「2011年、上原ひろみを聞くまでは、自身の音楽を作ることを試さなかったんだ。」彼は自由時間に音楽室を利用させてくれた高校の先生と、ニンテンドーDSの音楽制作ソフトに助けられながら、試行錯誤で音楽制作を行っていった。そしてニュージーランドに留学しているときは、父親から送られたラップトップを使用して楽曲を作り始めた。「そのPCは壊れていたんだ。だから父はその後、6年使用したPCを送ることになった。」

 

時代遅れのテクノロジーは氏家に速く制作する手段を教えてくれた。というのも、彼のコンピュータは2時間程度でオーバーヒートしてしまうからだ。「頭に浮かんだものをすぐにアウトプットすることができるよ。音楽を生み出すとき、例えば……このメロディにしよう、OKっていう感じで。」最新のSnail’s Houseの作品Ordinary Songs 4では、歪んだドラムといった特定の要素を引き伸ばすことを追求している。「My Holidayは最も長くしている。キックの音は実際にはベースとして機能しているんだ。めちゃくちゃに圧縮したよ。ミックスするのにとても手を焼いた。」

 

「Ordinary Songs 4では、いかにキュートな楽曲をぜんぜんキュートじゃないサウンドで描くかを追求したかったんだ」と彼は言う。歪んだドラムや「アーメンブレイク」をいかに使ったかについて彼が話すのを聞くと、一見してkawaii音楽がいかにドッキリさせるような効果を持つのかが明らかになる。「まず歪んだサウンドを作るところから始めた。普通の人ならビビっちゃうようなやつをね。そして、自らの耳を痛めつけるような音、もしくはジャングルのリズムのようなそれ自体はキュートではないサウンドをキュートなものにした。」

 Yunomi

Yunomiの過剰なサウンドを形付けるために、J-popは重要な役割を持っていた。「 PerfumeCapsuleなどの中田ヤスタカさんの音楽に影響を受けました。もちろん、SkrillexのようなEDMブームのアーティストもそうですが」と彼は話す。彼がそれらのアーティストを発見するのと同時に、Yunomiは最初期の創作物のいくつかに陽気な歌を添える気鋭のパフォーマーであるNicamoqに出会った。日本の伝統楽器とフューチャーベースをミックスしたアイドルプロジェクトBPM15Qのサウンドを作り上げることで、彼はそれらの影響に返答したのであった。

 

「端的に言って、それらが鳴らすサウンドが好きなんです」と彼は日本の伝統楽器について語る。「やっぱり僕は日本の伝統を評価したい。もしkawaiiについて考えるとしたら、やっぱり『日本って何だろう?』と考えるじゃないのかな。だから日本の要素を付け加えた。」Oedo Controllerのようなハードなナンバーでは、三味線のパッセージからいきなり拳を突き上げるようなタイムストレッチサンプルが始まることで、その特徴を加えている。

 

アイドルグループのCY8ERのメインプロデューサーをつとめることを含め、Yunomiはエネギッシュなセットを日本中でプレイし、J-pop産業においてより多くの仕事を見つけることで、昨年はより有名な存在になった。さらに彼はMiraicha Records(文字通り「未来のお茶レコード」) という新しいレーベルを共同設立し、よりキュートな要素と共にダンスよりのサウンドを際立たせた。だが彼は決定的に少しラフなサウンドを好む。「僕たちはコンピュータで完璧なインストゥルメンタルトラックを作ることができる。だから逆のことに魅力を感じるし、それを試してみたいんだ。これは僕のライフワークだね。」

YUC’e
YUC'e

YUC’eはYunomiと共にMiraicha Recordsの共同設立者である。彼女はフューチャーベースサウンドにフォーカスしたできたてのレーベルにより予測不可能なスタイルをもたらしている。東京を拠点としながら、2016年にリリースされたFuture Candyによって彼女は国内外の注目を集めることになった。この楽曲は現代的なkawaiiサウンドの決定的な事例であろう。そのアートワークと歌詞は甘いお菓子を礼賛しており、楽曲はヒラヒラとしたシンセ音とYUC'e自身のハイピッチな歌によって幕を開ける。そしてその2、3秒後、楽曲はピッチが上げられたボーカルサンプルと踊る気満々のベースで引き裂かれる。楽曲の終わりでYUC’eの狂気じみたボーカルが畳み掛ける、その激しさは絶頂を迎える。

 

この骨折しそうなほど激しいアプローチは、彼女のフルデビュー作Future Cakeのすべてのトラックに満ちている。さらにデジタルエイジのスウィングである“Night Club Junkie”やゆらゆら揺れるダンス・ポップの“Tick Tock”といった楽曲で、彼女はさらに意表を突いたアプローチを行っている。十分に聴き込めば、Future Cakeは日本のシブヤ系時代の楽曲をインターネット世代へとアップデートしているように聞こえ始める。しかしながら、彼女がどの方向性を選ぼうとも、YUC'eは「キュート」なサウンドという伝統的なアイデアを切り刻み、よりハードエッジで常に変わっていくものへと再編集しているのだ。

Ujicoとかのインタビューはブログレベルでもあったと思うけど、こうして世界に紹介されるのはなかなか素晴らしいね。でもまだまだ日本でのリスナーは足りてないと思うんだ。個人的にはやっぱYUC'eの最初のアルバムすげーわって再認識しました。 「Future Cakeは日本のシブヤ系時代の楽曲をインターネット世代へとアップデートしている」っていうまさに!なボトムラインはしびれるね。

 

Bandcampで日本のkawaii音楽シーン特集が掲載!冒頭の紹介部分を翻訳したよ

kawaiiってなんだ!って思うかたもいますが、ここ数年日本のインターネット界隈では定着したジャンル?なんだけど、Bandcampが特集してくれたよ。UjicoやYunomiのインタビューをしているみたいで、思った以上、本格的な特集だった。

daily.bandcamp.com

はてなブックマークでも結構話題になったから以下、冒頭部をサッと訳してみた。意味は取れていると思うが、サッとだからアテにしないように。いろいろと興味深い引用や発言があって、面白かったよ。

 

「かわいい(kawaii)」ほど広く解釈される日本語の概念はないだろう。この言葉はしばしば――概ね“cute”として翻訳されるが、より専門的には「子供っぽい」もしくは露骨に見下した愛らしさを意味する――アニメから洋服まで様々な日本文化の輸出においてつきまとってきた。2020年の東京オリンピックのマスコットが最近公開されたのを見てみると、そこでは抱きしめたくなるような生き物を生み出すに長けたこの国において盛んな議論がなされていた。“ka-why-ee”と発音される形容詞は日本のファッションからコラボカフェまであらゆるところに展開されてきたし、それは多くの人にとっての従うべきライフスタイルなのだ。例えば、ぬいぐるみのセットを形容する“punk”といった概念として考えて見れば良いだろう。

 

当然のこととしてkawaiiは音楽にも拡大される。西欧に進出することを目指す日本のアーティストたちはしばしば、その言葉を自らにラベリングする。例えば、きゃりーぱみゅぱみゅのような原宿生まれの爆弾から、ベビーメタルのようなキュート・ミーツ・ヘヴィメタルなサウンドまで。より小規模なアーティストもまた、ベルや木琴のようなキラキラした音と忙しいフューチャーベースをミックスしたサウンドによって、そのようなタグワードを得ようとしている。インターネットの一角では、それらの新しい種類のポップミュージックを “kawaii bass”と分類するに至っている。

 

「僕は僕自身の世界観を持っている。みんなは僕のキャラクターを絵で描いて、送ってくれるんだ」と、新宿のカフェでUjicoとして知られる氏家慶太郎は話してくれた。彼はSnail’s Houseとして知られるプロジェクトで使用するアートワークやビデオに登場するカタツムリのようなキャラクターを言っているのだ。このスタイルを前面に出すことで、彼がインターネットにアップロードしたすべてのアルバムとEPは瞬く間に売れ、数千人のファンを魅了した。YunomiやYUC’eといったアーティストと同様に、Snail’s Houseは“kawaii music”の格好の事例だ。

 

www.youtube.com

急成長しつつあるこのような“cute”な音楽を作る日本のアーティストたちだが、それでもまだ容易に定義付けられない。甘ったるいサウンドが現れる一方で、ヘヴィなノイズもしばしば登場する。EDMに影響を受けた重いベースラインや刺すようなシンセ音、そして高速ビート。彼らの創作物は概ねアグレッシブと言って良いものだ。氏家は自身のTumblrのフィードでkawaiiイメージを漁るのに忙しい一方、彼が興味を持っている音楽はブレイクコアフュージョンドラムンベースなのだ。

 

「Snail’s HouseはUjico名義以外でキュートな音楽を作るための場所だと思っている。」いかにクリエイティブに行き詰まらないようにやっていくかを説明する際に、彼は言う。より遊び場に向いたサウンドを楽しむ一方で、彼は音楽的に非常に雑食であることは明らかだ。インタビューの最中、最近のお気に入りの音源をスマートフォンで聞かせてくれた。それは歪んで慌ただしいEDMのトラックで、Snail’s Houseのようなリラックスしたスタイルとはかけ離れたものだった。よりハードなプロジェクトのために多くの別名義があることも教えてくれた。

 

kawaiiは日本以外の国ではしばしば誤解される概念だ。多くの人は単純にそれをサンリオや雑誌の『FRUIT』と同一視するが、より複雑な歴史を持っている。1970年代に登場したその言葉は、シャロンキンセラがエッセイ“Cuties In Japan”でティーンネイジャーの間の“cute handwriting craze(可愛い手書き文字の流行)”と記述されたものによって目を引くことになった。それは実際に厳密な書き言葉のルールからのちょっとした逸脱であったのだ。kawaiiがより日本のキュートネスのステレオタイプになっているとすれば、世界中に輸出されるそのタグが付けられたものは――特に音楽は――そのひねりを隠蔽する。実際にきゃりーぱみゅぱみゅの音楽とビデオはkawaiiに対するグロテスクな解釈を想像させる。他方、ベビーメタルの名は体を表す。氏家が指摘した

TomgggAvec Avecといった日本のパイオニアでさえも、コットンキャンディーのような甘い音楽の中に異質なものを忍ばせていたのだ。

www.youtube.com

 

「海外でしばしば‘kawaii’とタグ付けされている音楽を聞くとき、聞くのが苦痛だと感じることがある。というのも、それらは‘kawaii’であろうということにあまりにも意識的であるからだ」と、Aiobahnとして活躍するKim Min-Hyukは言う。彼はソウルと東京というふたつの故郷を行ったり来たりして暮らしてきたが、彼の母国よりも日本のコミュニティによりフォーカスしてきた。彼の音楽もまたkawaiiと呼ばれてきたが、彼自身はそれに同意していない。というのも、日本語ボーカルとアニメスタイルのアートワークを使うことによって、そのタグ付けが安易に適用されていると彼は考えるからだ。

 

「理由のひとつはアニメカルチャーにあるだろう」と、この種の音楽への最近の関心の高まりに関して、プロデューサーのYunomiは言う。日本のアニメに愛を抱く世界の多くの人々がますます増えている現在。日本のアニメ的イメージはミュージシャンを表すための容易な視覚的なスタンプとなった。そして、日本からインスピレーションを得たジャンルで活躍するアーティストは尽きることはない。私は“kawaii sounds”とタグ付けされるもうひとりのアーティスト、Cute Girls Doing Cute Thingsとも話した。「美的な理由のためだけで」東京に在住していると言い張るアーティストだ。彼らは実際にはヨーロッパ出身である。私は彼らだけがこの種の策略を続けているとは思っていない。「彼らはファンタジーを感じることができる音楽が好きなんだ」と、Yunomiは言う。

 

結局、この世代の日本のkawaii音楽の作り手は、新しいサウンドを加えるアーティストとして考えるのがベターだろう。それはしばしば、ハードエッジなものであり、他方でソフトなものとして見られるスタイルを持つ。以下は日本の “cute”な音楽に新しい意味を与えるアーティストである。

 

 個人的にはUjicoとYUC’eは国民栄誉賞上げてもいいくらい素晴らしいよ。もっと注目しようぜ。

 

 

Monika@DDLCはハルヒ説

遅かれながらDoki Doki Literature Clubをプレイした。大方の予想通り、日本のノベルゲームシーンの中ではそれほど珍しくもないジャンプスケアやメタ展開を利用しながらも、かなりコンセプチュアルにうまくまとまった作品であった。それ自体としてはそこまで評価できる作品だと思えないけど、やはりこういう作品が海外から登場してきたことに関しては興味を抱かざるをえない。日本のノベルゲームの歴史を一気に追いついている印象だ。

www.youtube.com

まあ前半の日常パートやキャラクター描写のいい加減さなど、駄目なところも目立つ。だけどある種のmemeとして盛り上がっているMonikaの魅了に関しては全面的に支持したいと思う。彼女は神だ。文字通り。

f:id:shinimai:20180223011806j:plain

ただこの彼女の設定自体も既視感があったのは否めない。端的に思うのは涼宮ハルヒからの影響だろう。思いっきしネタバレになるが、Monikaの全知全能ですべてを書き換える能力はハルヒそのものだし、いわゆるJust Monikaな場面の表情やポニーテールといった髪型もおそらく意識して作られたものだろう。そもそも文芸部というなんだかよくわからない部活をやっている意味でもSOS団に似ている。ただ最終的に彼女の全知全能は完全なものでもなく、最後には作者自ら登場するあたりはなんだか徹底していない感じもある。

f:id:shinimai:20180223011525p:plain

ともあれ、このMonika=ハルヒ説はやはり海外のファンの中でも少し話題になっている。ただそれほど言及されないのは、本作がハルヒなどよりも若い層に受けているせいかなと思っている。いずれにせよ、『涼宮ハルヒの憂鬱』における全知全能のハルヒという存在、そして結局オチが提示されないまま終わっている佐々木さんみたいな存在が好きな人はこのゲームをして損はないだろう。特にJust Monikaな場面で淡々と独白されるセリフはどちらかと言えば、佐々木さんだ。

あと海外のビジュアルノベルにありがちな日本のオタク文化への覚めた目線は強く感じた。ある意味では嫌味な作品にも感じるのが、おそらく作者がこれを作った背景には海外の日本オタク(weeb)に見られる煽りネタ“Your waifu is...”があると思う。これはいわゆる二次元嫁に対して「存在しないよ」「現実じゃないよ」とか言って煽るやつなんだけど、日本人のオタクにとっては何が煽りかわからない不思議なネタである。

f:id:shinimai:20180223011429j:plain

おそらく、二次元のキャラクターに対する当然な愛着を感じている日本人と違って、西洋のオタクにとってはこのような感情は違和感があるのだろうと思っているんだけど、それ自体を楽しむ態度みたいなのがDoki Doki Literature Clubにも現れていると思える。その意味でここまでわかりやすいメタネタをこのタイミングで出してくるのはなんとなくわかる。まあそれが結局、逆輸入される形で日本でも人気になっているのもなんだか不思議な状況だ。本作を通して、ビジュアルノベルがさらに普及している感じはするし、今後も様々なタイプの作品がかなりの速度で登場することは間違いないだろう。そのような英語圏ビジュアルノベルシーンに対して日本のクリエイターはどう取り組んでいけばいいのか、そろそろ本気で考える時期に来ている気がした。

 

f:id:shinimai:20180223111807p:plain

二次創作ゲーム?Monik After Storyの告知用画像。このWaifuとのAlone Xmasネタも何故か西洋人は大好きだ