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Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

ありふれた表現、日常的な創作

世の中にはその辺の普通の人が作った芸術(あえてそう呼ぼう)を楽しめる人とそうでもない人がいる。たぶん大多数の人はアーティストや芸術家や作家や有名ブロガーやユーチューバーの作ったものしか楽しめないのかもしれないが、私は友人や家族やその辺の名もない人の作ったものを意外と楽しめる。これ自体はまあ良いとか悪いとかじゃないけど、もうちょっとみんなにもそういった「ありふれた表現、日常的な創作」を楽しめるようになってほしいと思っている。

ただやはりそういったものを楽しむにはいくつかの障壁がある。まずクオリティ。まあクオリティといっても実際にはいろいろだけど、一般にそういった「ありふれた表現」は往々にして商品や作品として流通するものに比べて、何かしらの「質の悪さ」がある。音質が最悪だったり、歌詞がいい加減だったり、カット割りがおかしかったり、線がクリナップされていない。ただこういった部分はある程度の作り込みや制作費の投入でクオリティアップがなされるため、そのアイデアや構想やコアな部分は十分に鑑賞に耐えうる。だいたい商業的な作品を作っている人もラフスケッチやデモの段階では荒削りなわけなのだから。

またこれらの荒削りな部分はそれはそれで味がある。商業的に作り込まれたものは良くも悪くも角が取れて、そういった荒削りな部分の味が薄まっている。ローファイと言われるような音楽のジャンルはその部分自体も美的な鑑賞の対象だ。

ある種のインディーゲームもそういった部分がある。これらの荒削りな表現は苦手とする人もいるだろうが、まあ要するに好みの問題という部分であってそんなに大したことではない気もする。

でも二番目の障壁として思いつくものはやや厄介そうである。それは作者との関係性だ。現代において作者と我々の関係は何らかの意味で隔たりがあり、商業的な作品を作る作者と直接と面と向かうことはほとんどの人はないだろう。そういった距離がある関係が通常であると、実際に知人や目の前にいる人が作ったものにどういう態度を取ればいいかわからない人は多いように感じる。

確かに作り手がそばにいる状態で何かの表現を鑑賞するのはやや特別なことに感じる。場合によってその人との関係性によって「純粋に」鑑賞ができないこともあるだろう。また逆にその人に関する特別な知識によって、他の人より多くの洞察を持つこともできるだろう。

この関係性にどう対処するのかは人それぞれだし、あまり答えはないように思えるが、ともかく慣れているかいないかにはかなり差があるように思える。コミケなどの同人誌即売会などに足を運ぶ人は直接作り手と向き合うため、こういった関係性にある程度の耐性を持っているように思える。

いずれにせよ、そういった近いところで出された表現にはそれ固有の楽しみもあり、プライベートな感覚に満ちている。 表現や創作といったことは何も匿名の「読者」だけに向けたものではなく、近い知人や家族、恋人に向けて作られることがあっても良い。むしろ歴史的にはそっちの方が古い表現であるようにすら思える。

最後に障壁とは異なり、私が「ありふれた表現、日常的な創作」に対して持つ独特な感慨について触れておこう。こういっては何だが、私は人を人として扱う以上に人類という生物として見ることが多い。そして、そこから生まれる創作物はビーバーの巣やサンゴ虫が作る珊瑚のように、広い意味での生物の表現型として考えている。つまり、それらは自然美としても鑑賞できるものである。いくら陳腐なメロディー、凡庸なフレーズであっても、その生態系やそれに乗っかる文化から生まれたことを考えると往々にして崇高なものとして立ち現れるものなのである。