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Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

発明と創作、あるいは私がいかにVRに(まだ)期待していないかについて

芸術も技術もその語源においては同一であるということは、美学の授業で最初に習うことだ。ともあれ、我々が発明と呼んでいることと創作と呼んでいることの違いは、その形而上学的本質はどうであれ、日常的なレベルで十分に理解可能だ。

蓄音機はエジソンによって発明された。アビーロードビートルズによって創作された。ラルフベアはオデッセイを発明したし、ハワード・スコット・ウォーショウはETを創作した。グーテンベルク活版印刷を発明し、シェークスピアは四大悲劇を創作した。これらの区別には何も問題がないように思える。

発明は発明であれど、十分に創造的で創作行為である、と言われれば同意しよう。確かに手と道具を動かしていれば、発明ができるわけではなく、それは高度に知的で感性的な活動だろう。むしろ発明の方がより創造的とみなす人がいても不思議ではあるまい。それに比べて芸術家のやることは出来合いの技術の上で与えられたものを並び替えるだけにすぎないのではないだろうか。

しかし誤解してならないのは、この違いは価値的な問題ではないということだ。発明と創作はどちらも創造的行為であるが、どちらか一方がより創造的で価値があるというわけではない。両者は共に広い意味では創作行為であるが、創作者が自らの創造力を発揮するレイヤーが異なっている。その結果として、我々がそれらを評価するレイヤーも異なっているのだ。

発明と創作のもっとも重要な違いは、前者は技術(テクノロジー)そのものを生み出すのに対して、後者は技術の上で表現される、もしくは媒介されるという点にある。エンジンは蓄音機という録音可能な技術を作った。その後、一般化したレコードという技術に対して、ビートルズ(及びジョージ・マーティン)はマルチトラックレコーダーなどを駆使してレコードの上で表現される新しい音楽を創作した。Atari社はカートリッジ式家庭用ゲーム機を発明して、その技術の上でハワード・スコット・ウォーショウはETを創作した。これらの発明と創作に対する法的保護措置として、特許と著作権という別な制度が用意されていることも指摘できよう。(初期、ビデオゲームではハードとソフトが未分化であったため、これらの発明と創作が同時に行われたこともあろう。ただし、それでも区別はつくことにはかわりはない。)

発明が生まれたとき、ある種の技術的な熱狂が生む。「このテクノロジーが我々の未来を変える」、「これが普及することで莫大な利益がもたらされる」。実際に成功した発明は、当然ながら我々の文明を前進させてきた。活版印刷、蒸気機関、電気、レコード、ビデオゲーム。しかしながら、90年代以降注目されることになった技術史からは、これらの発明が普及するのは順風満帆ではなかったことが知られる。有名どころはここでもエンジンの蓄音機であり、彼はこの道具を音楽の録音再生メディアとして見ていなかったのである。それよりも彼は蓄音機が音声メモや著名人の肉声を録音することに価値を置いていた。またレコードが普及したのはその後のベルリナーのグラモフォン以降であり、円盤型のメディアによって保管が簡単になったことが大きいのである。

いずれにして発明と創作は異なっている。発明は創作の可能性を生み出すことはあっても、直接、我々を感動する体験は生み出さない。すごく簡単に言ってしまえば、技術とコンテンツは別なのである。当たり前だが。

長い前フリからやっとVRの話をしよう。私、自身、ゲーム業界の中で様々なVRコンテンツを試してきたが、正直なところ、これはまだ技術でしかない。確かに技術的にはかなり成熟している。しかし、この技術を用いた創作に革新が訪れるのはまだ先であろうと思う。ベルリナー式のレコードや電気録音が普及したのは30年代頃だが、ビートルズがそれら技術の潜在的能力を引き出したのは60年代だ。立体視の映画が生まれたのはかなり古いが、それらを映画の文法に落とし込んだ作品は最近でも少数の事例しかない。技術によって媒介されるところ「美しい技術(beaux arts)」は当然ながら遅れてやってくる。

またVRの応用性について現在では多数の案がさけばれている。ゲーム、映画、医療、会議、ポルノ。これはこの技術の可能性の幅が広いということを意味するのではなく、端的に「用途がまだわからない」のである。まさに蓄音機登場時のエンジンと似たような状況だ。おそらくいくつかの用途は断念され、実際にVRが用いられるのは2、3の領域だけだろう。今のところ、ゲームがいちばん有望であるのは、ゲームは形式と目的において他のジャンルよりも圧倒的に自由なだけだ。実際のVRゲームはこれまで培われてきたビデオゲームに比べると、正直なところ魅力は少なく、ただそれはインタラクションがあるという意味でゲームと呼ばれているだけだ。(「VRコンテンツ」という中立的な呼称はそれが何かわからないための言い訳めいた言葉に聞こえる。)

VRゲームにしてもまだまだ解決しなければいけないことは多い。VRデバイスによってコントローラーの方式は違うが、概ね従来のビデオゲームに比べて以下の問題を抱えている。移動操作、UIの表示、プレイヤーをアフォードする文法、カメラとカット割り。実際のところ従来のビデオゲームは、これらの問題を50年かけて解決し、その表現を洗練させてきた。現在、主流となっているゲームの移動操作やUIの表示、プレイヤーを誘導する技術、カメラワークは最初からあるものではない。カット割りが映画にとって文法であるとおり、ビデオゲームにとってもそれらは文法であって、長年培ってきたものだ。

VRゲームはこれらの問題を少しずつ解決していくことになるだろう。時代のあるところにビートルズのような才能が現れ、我々の思いもよらない方法での「技術の利用法」を発見するかもしれない。しかし、いくら時代のスピードが早くなったとしても、既存のビデオゲームが50年かけて培った技法に到達するには、やはり10年はかかると思われる。つまり、これが私がいかにVRに(まだ)期待していないかについての理由である。

別に業界に冷水を浴びせかけたいのではない。しかし、今のVRの熱狂とは過去に何度もあった技術に対する熱狂である。もちろん、それにより大きな資本が動き、技術進化の速度が加速することは悪いことではないだろう。だが、エンドユーザーの立場に従えば、我々はまだまだフラットなモニターで満足できるだろう。