Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

ゲームにおけるカット割りとは...あるいはコマ割り(序)

前回の記事がわりかし好評を博したので、続きを書こう。あんまり内容には自身がなかったんだが、ああいった観点でビデオゲームを見ている人がいなかったようなので、なんかの出汁になれば良い。

今回、考えてみたいのはカット割りだ。カット割りとは基本的には映画の文法であり、シーンを構成するために複数のショットを分割(カットして)構成することである。現在では当たり前の手法であり、カット割りがない長回しの方が特殊な技法となっているのだが、初期の映画にはカット割りという発想はなかった。リュミエール兄弟の電車のやつとか考えてもらえばそうだし、メリエスの無声映画なんかも基本的には演劇を定点カメラで長回しで撮っているだけだ。

(以後、カット割りという言葉はビデオゲームにおけるカットシーンという概念とは違うことに注意して読んでほしい。混乱するから。)

要するにカット割りとは発明であり、文法である。ロングショットで状況を説明した後、クロースアップで主人公の会話を続けるといったことは、今の人間ならすぐに理解できる映画の文法だが、これは我々がそのような映像表現に慣れているだけであって、自然の産物ではない。ゆえに、映像作品においてカット割りを行うというのは、相応の芸術的な才によってなされるわけであり、下手も上手いも如実に現れるものだ。このあたりは映画史の教科書を読めば書いてあることなので、置いておくとして、ビデオゲームではどうだろうか。

古典的ビデオゲームにはカット割りというのはほとんど存在しないだろう。固定画面シューティング(インベーダーゲーム)や固定画面アクション(パックマン)には画面が切り替わることはない(エンディングとかリザルト画面を抜かせば)。画面がスクロールしたり、ステージが切り替わる類のゲームでもそれらはカット割りというには原始的な表現だ。あくまでもカメラはプレイヤーキャラクターを追い続けており、画面の切り替え(つまりは編集)によって物語が描かれるということは、かなり稀であったのではないだろうか。

私がぱっと思いつく最初期のカット割りは『スパルタンX』のこのシーンである。覚えている人もいるかもしれないが、1分55秒あたりをみてほしい。

これはステージクリア後の演出にあたる場面であるが、主人公が助けるべきヒロインが映っている。主人公も一緒に映っているのはおかしいが、塔の下の階層で戦っているとき、その頃、ヒロインはいかに!という同時間軸の状況をカットを割って伝えていることは確かじゃないだろうか。(この指摘はブルボン小林が本の中でも言及していたように思える。)

この「ヒロインに魔の手が迫る!」という状況を説明するシーンはビデオゲームの本質として枚挙にいとまがない。有名どころでは『ファイナルファイト』におけるオープニングなどは映画的な雰囲気でそれを伝えているだろう。(STGなどでは『フェリオス』におけるステージ間のシーンも同種のものであろう。)

ただ、ゲーム部分のサイドスクロールとまったく関係のないシーンで構成されているため、多くの人にとってはこれがカメラによるカット割りという認識を持たないだろう。肝心のゲームプレイの部分が映画的にできていない限り、カット割りらしいカット割りというのはいかにも難しく、それらはあくまでも補助的な演出として切り離されてしまうのだ。

これはトップビューのJRPGアクションRPGSRPGにも言えることだ。立ち絵などによる演出はあっても、それらはゲームプレイ本体とはどこか別な演出として扱われる。よって、これらのゲームにおいてカット割りという概念が入ることは皆無に近い。むしろこれらのゲームにはカメラという概念は存在せず、トップビューだけにフラットな視点で物語が描かれているわけだ。

例外としての面白い例はPCエンジン版の『ネクロスの要塞』。この作品では戦闘シーンが簡易的なアニメで表現され、味方の攻撃と敵へのヒットがカットが割られることで表現されている。

個人的にこの表現はお気に入りであって、2Dながらも映画的な演出を可能としている。まあ実際にはこの種の表現の代表例はファミコン版の『キャプテン翼』であろう。

さてよくよく見てみると、これはつまりカット割りというよりもコマ割りなんじゃないかと思えてくる。もとがマンガだから当然だが、2Dグラフィックスを場面によって切り替える表現は、我々日本人にとってはマンガという表現によって一番馴染んでいるのだ。

キャプテン翼』はマンガの世界をシミュレーションゲームにうまく落とし込んでいる傑作なのであるが、さらに遡るとこの手の表現は実は日本型のアドベンチャーゲームにたどり着くのではないかと思う。日本のアドベンチャーゲームはホビーパソコンから始まりつつ、堀雄二などによるファミコンへの簡略化によって確立したといえる。当時のファミコンブームによって漫画原作もののアドベンチャーはたくさんあったが、かなり安易にコマ割りをグラフィックスに落とし込んでいるものは多々ある。

これらに変化が生まれるのはやはり3D技術の革新によるものだろう。そのへんについてはまた後で......。