Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

ビデオゲームと長回し

映画にはいわゆる長回しという表現技法がある。要するにカットを割らず、フィルムを回しながら長いシーンを撮影する技法だ。役者の集中力とともに複雑なシーン構成能力を求められる。ブライアン・デ・パルマや最近ではアルフォンソ・キュアロンなどの監督がこの手の手法を得意としている。

翻ってゲームにおいてはこの手の表現はありきたりだ。それは当然、ビデオゲームにおいては3Dで作られた空間をカメラは自由に動ける。ステディカムやドリー、クレーンといった道具を使わずとも、カメラは自由に空間を動き回ることができる。役者も人間ではない。プリセットされたモーションを完璧に再現してくれる。ピタゴラスイッチと揶揄されるようなデ・パルマ長回しもそれほど難しくなく再現できるだろう。

また昨今はCG技術のおかげで、映画の世界では現実ではありえない長回しがちょっとした流行りになっている。代表例では3D映画としても傑作のキュアロンの『Gravity』。

ゲーマーならば10割の人が「ゲームだろ」って思うようなショットであり、もはや映画の次元から超え出ている。まあCG技術というのは基本的に同じなのでゲームも映画もないのだが。

とはいえ、この観点でこれまで映画史を見つめてみると、「ゲームだろ」っていいたくなる長回しは実際多い。最近、感じたのは一部に熱狂的なファンを持つ『Blues and Bullets』。これは映画みたいなアドベンチャーゲームなんだけど、逆に、なんかこのゲームゲームした長回しは見覚えあるなと思ったらこれが思いついた。

ポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』だ。看板を使ったタイトルショットから斬新な斜めアングルからグルっと街をまわり、もう一つのクラブの看板から中に入り、シームレスに会話が進む。めっちゃゲームっぽい(笑)。『Blues and Bullets』では短めだがオープニングのシーンが似たような構成をとっており、街の風景、看板、ダイナーの中に入り、会話とシームレスに続く。次の動画の5分30秒あたりからをみてもらいたい。

 『ブギーナイツ』の長回しなんかはもう映画の歴史に残るようなかっちょええショットなわけだけど、正直、ゲームの世界では本当に珍しくもない。舞台背景を説明しつつ、そのままカメラをダイアログシーンに移すのはむしろゲームでは安直ではないかと思うくらいだ。つまり、ゲームにおける長回しはそんなたいそうな技法というよりもむしろ怠惰なんじゃないかとすら思えてくる(そもそもFPSはゲームプレイ中は基本的に長回しだ…)。逆に言えば、ビデオゲームにおいては適切なカット割りをいかに行うかの方が難しいんじゃないんだろうか(プレイヤーのインタラクションを阻まないようにという点でも)。

とはいっても、やっぱり長回し長回しで面白い。ゲームにはちょっと映画とは違った手法として利用できるよって教えてくれたのが『Vanishing of Ethan Carter』だ。下の動画はエンディングのシーンで激しくネタバレだが、4分25秒あたりから見れば大丈夫。

 

眠る少年、燃える家、消火活動をする家族、そして美しい湖。室内から始まってどんどん引いていくショットだが、時間は止まっている。非現実的であるが、ゲームをクリアした人ならば、この状況の意味を即座に理解できる切なくも面白い効果を持った表現だ。つまり、ゲームの長回しには映画が持つような「実時間」といったリアリティから一定自由で、カメラが動きまわる間はまさに神の視点として時間が歪むのだ。

『Vanishing of Ethan Carter』は一人称視点であることを非常に強調したゲームであり、本作にはカット割りはほぼないと言って良い(一部演出上の転換はある)。そのため、他のシークエンスにおいても状況説明は長回しの手法によって描かれるが、ほとんどの場合、時間軸は歪んでいるというか、説明上の端折りがある。

まあこのような表現を長回しといって良いかは、微妙なところであるが、シーンがシームレスにつながることによって、舞台や事件の迫真性を伝える効果はあったように思えるのだ。逆に言えば、登場する事件の数々をカットを割って表現したならば、どこか虚構性が増していたような気もする(とはいえ、この作品における虚構性っていう問題は非常にやっかいなんだが…)。

この手の話、次、書く機会があればゲームにおけるカット割りみたいな話を書こうかな。とはいえ、あまりネタは思いつかない。