Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

Emoについて

Emoという言葉はその意味するところはともあれ、完全に日本に定着してしまった感はある。大学生が「これエモい」とかいう発言を頻繁に発し、それを聞くことはもう珍しくなくなった。

とはいえ、やはり「こいつ何を思ってエモいとか言ってんの?」と思わなくもない。もちろん、ロックであれパンクであれポピュラリティを得た音楽ジャンルは形容詞として乱用される運命であるが、Emoはその誤解の振れ幅が特段に大きいような気がしてならない。というのもエモいエモい言うてるやつは、Emoが音楽ジャンル(もしくはサブカルチャースタイル)だとすら思ってないような気がする。

音楽ジャンルとしてのEmoが日本ではそれほど浸透していない理由はいくつか考えられる。オルタナ、グランジの影で紹介されるのが遅れた。北米で浸透したときには、日本では洋楽ロック自体が少なくなっていた。良いディスクガイドや書籍に恵まれなかった。サブカルチャーやファッションとしてのEmoと音楽ジャンルのイメージの違いなどなど。

とはいっても、現在の北米を中心としたインディーロック・シーンを考えるにEmoは切っても切り離せないものだ。そのため、ここでは英語版ウィキペディアの記述を参考に音楽ジャンルとしてのEmoの歴史を振り返ってみたいと思う。まあ以前に全訳したので、それをまとめて置きたいだけの雑文だが。

 

Emoの先駆者たち

Emoについてひとつ忘れないで欲しいことがあるとするならば、それがハードコアパンク・シーンから生まれたことだ。マジでこれだけは知っておいて欲しい。というのは、ハードコアパンクというと普通の人にはどうしても過激で極端な音楽(全然間違ってないが)というだけのイメージで終わってしまうのだが、実際は現在の音楽シーン、それこそ日本のロックバンドにも多大な影響を与えている。

Emoの発端もアメリカン・ハードコアの由緒正しき故郷、ワシントンDCである。ワシントンDCは80年代の初頭からBad BrainsやMinor Threatといったレジェンドを生んでいるが、それらの影響を受けたバンドは徐々に音楽性を変化させていった。端的に言えば、ハードコアの持っていたストレートで激しい音楽性と政治的なメッセージ性が後退し、実験的でメロディアス、日常的なテーマの楽曲が増え始めたのだ。

 

だが、政治的なメッセージ性が後退したといっても、Emoそのものは非常にポリティカルなムーブメントだった。当時のハードコア・シーンにおいては暴力行為や性差別などが増加しており、それに対する反対行動としてEmoのシーンが形成されたとされる。このような社会的なものから個人的なものへという政治姿勢の変化は、80年代全体の左翼思想でも見られることであり、Emoもそのひとつであると考えるとなかなか興味深い。

 

有名なのはMinor Threatのイアン・マッケイのSxEであろう。SxEについて書いていると長くなので詳述しないが、全体として当時のパンクシーンの価値観がコミュニティから個人へと焦点を変えつつあったことという点では、EmoとSxEは似たような動きであったのだろう。そしていくつか

あったMinor Threatのイアン・マッケイのポリシーの延長として生まれた。Minor Threatのファンであったガイ・ピチョトーは1984年にRites of Springを結成、メロディアスなギター、変化に飛んだリズム、非常に私的で熱烈な歌詞を取り入れ、ハードコアが自らに課してきた枠組みから抜けだした。ノスタルジーやロマンチックなほろ苦さ、詩的な絶望といったものを含む彼らのバンドのテーマは、エモの後の世代において一般的なものになった。また彼らのライブ・パフォーマンスでは、オーディエンスたちが時折むせび泣き、公に感情を吐き出す場所となった。イアン・マッケイもまたRites of Springのファンになり、彼らの唯一のアルバムをレコーディング、ローディーとして働いた後、すぐに自分のバンドを結成した。Embraceと呼ばれるそのバンドは反省的で感情を解き放つといったRites of Springと似たようなテーマを探求した。

1985年の「革命の夏」――創造性という新たな精神を取り入れ、ハードコアの凝り固まった制約から抜けだそうというワシントンDCシーンの人々による意図的な活動――との関わりの中で似たようなバンドがすぐに続いた。このムーブメントには、Gray MatterやBeefeater、Fire Party、Dag Nasty、Soulside、Kingfaceといったバンドが関わっていた。

「エモ」という言葉の正確な起源ははっきりしないが、1985年にまで遡ることができる。 『Nothing Feels Good: Punk Rock, Teenagers, and Emo』の著者、Andy Greenwaldによれば、「『エモ』という言葉の期限は謎に包まれている(…)だが、それが最初に日常的に使われたのは1985年のことだった。Minor Threat がハードコアであったならば、そのとき、Rites of Springはその違った姿勢からエモーショナル・ハードコアもしくはエモコアであった」。「Our Band Could Be Your Life」の著者、Michael Azerradもまたこの言葉の起源をこの時代に追い求める。「そのスタイルはすぐに『エモコア』と呼ばれた。関係者は皆、その言葉を忌み嫌ったが、少なくとも15年間、その言葉とアプローチは繁栄し続け、無数のバンドを生み出した」。またイアン・マッケイによっても、その言葉の機嫌は1985年に求められる。Thrasher magazineのある記事の中では、Embraceや他のワシントンDCのバンドを指して「エモコア」と呼んでいるが、彼はそれを「人生で耳にした最もクソ馬鹿げたものだ」と語っている。他の記事によると、その言葉はEmbraceのライブでオーディエンスの一人が侮辱として「エモコア」と叫んだことに起因する。また他のものでは、イアン・マッケイが雑誌で自嘲的にその言葉を使ったとき、その言葉が作られ、Rites of Springに起源があると主張している。

しかしながらオックスフォード英語辞典では、「エモコア」の最初の用法は1992年と記され、「エモ」は1993年とあり、その印刷されたメディアにおける最初の登場はNMEの1995年であるとされる。

エモコア」というラベルは、すぐにワシントンDCのパンク・シーンから広がり、イアン・マッケイのレーベルDischord Recordsと関わった多くのバンドに付され始めた。これらのバンドの多くは押しなべてこの言葉を拒絶したが、それでもそれは付きまとっていた。シーンのベテラン、Jenny Toomeyは「当初、その言葉を使ったのは、シーンの大きな盛り上がりを妬んだ人たちだけだった。[Rites of Spring]は、その言葉が登場して、彼らが嫌悪する以前から健在だった。しかし、この奇妙なムーブメントにおいては、人々が音楽を「グランジ」と呼び始めたときと同じように、たとえその言葉を嫌悪している人でもそれを使用することになった。」

ワシントンDCのエモ・シーンは数年しか続かなかった。1986年までにRites of Spring、Embrace、Gray Matter、Beefeaterを含むムーブメントの主だったバンドの多くは解散した。だがたとえそうであっても、そのシーンから誕生した着想と美学は、自家製のジンやヴァイナル、風のうわさを通じてすぐに国中に広がった。Greenwaldによれば、ワシントンDCのシーンは、後続するエモの発生すべての土台を築いたのである。

80年代半ばにDCで起こったこと――怒りから行動へ、外に向けた憤慨から内に秘められた混沌へ、個別化された集団から個々人の集団へといった変化――は様々な意味において、次の20年間のアメリカのパンク・シーンの変容におけるテストケースであった。その音楽の力とイメージ、それに対する人々の反応の仕方、そしてフェイドアウェイするのではなく燃え尽きるというバンドのあり方はすべてRites of Springによる最初の僅かなパフォーマンスに起源を持つ。意図的なものではないが、エモのルーツはアメリカの首都で50数人によって産み落とされた。いくつかの点で、それは決して良いものでも純粋なものでもなかった。だが確かに、「エモコア」がジャンルとしてコンセンサスを持ったのは、ワシントンDCのシーンからであった。

イアン・マッケイとガイ・ピチョトーは引き続き、Rites of Springのドラマー、Brendan Cantyを加えて、Fugaziというバンドを結成することになる。フガジは非常に影響力のあるバンドであり、ときおり「エモ」という言葉と関連して語られるが、普通、エモ・バンドとしては認識されない。

 

《長くなったので不定期連載...》