Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

On voice acting in Japan

声優について何か書いておこうと思い、カジュアルに書き散らす。もともと学術的な興味として「声優」や「人間の声」について扱いたいと思っていたが、明治大学での講義のとある事件(笑)がきっかけとなったので、ごく簡単に。

4月29日の月曜に

というツイートが出回った。改変ネタも何件かあり、まあネタはネタってことなんだけど、この出火元は私の授業である。実際の授業で行われたやり取りはちょっと異なり、私がライブに関する質問をした後、具体的にどういったアーティストのライブに行くかつっこんで聞いたら「声優のとか」と返ってきただけです。

やりとりもまあけっこうカジュアルに行われたが、「声優」ってネタだけでなんというかスキャンダルに扱われたのは、若干、遺憾である。っていうか、もう日本の音楽産業において声優の方が音源をリリースしたり、ライブしたりするのは当たり前だし、産業規模としても立派なものであるから、音楽として声優を鑑賞することになんら特殊なことではない。

とはいえ、声優文化自体は日本においては特殊に発展していることは間違いなく、その点についてはちゃんとした研究や分析が必要だと思っています。

試しにCiNii程度で検索してみると、そこそこ先行研究がある。

中身を見ていないので内容はよくわからないが結構あった。もちろん、技術的な論文が多いのだが、人文系のものも少しはあり、今後の研究に期待したい。

初音ミクなどの人気もあって、 ボーカロイドについての人文的な考察や研究の試みは多くなっているのだろうと思うのだけど、もっと本質的な問題として人間の声について技術的なものだけではなく、哲学や美学的な側面からの研究は必要だと前々から思っていた。

というのは音楽とは別のものとして、「人間の声」がどの程度、感情を表現したり、その人格を表現したりするのか、そういった問題はいずれは認知科学的な基盤のもとに追求されるものではあろうが、先に哲学的に考えておいても損はないだろう。

私がこれまで声優を含め、人間の声について考えてきた問いはざっくりまとめると以下のようなものだ。

  1. 日本の声優文化とキャラクター論
  2. ラップと声優の類似性と差異
  3. 人間の声の認知とパーソナリティ
  4. 声優と間テキスト性

1は既に誰か論じていることを祈るが、いわゆるマンガやアニメで行われてきたキャラクター論を声優という要素をいれて論じるもの。むかしこの辺で書いたが、伊藤剛の言うところの「キャラクター」と「キャラ」の違いは、声優という存在によっても強化されたのではないかと思っている。

2はこの延長線上にあるヒップホップや黒人文化との比較論だ。なんどかTwitterで指摘していたが、ステージネームを付けて物語のようにライムを繰り広げるラッパーたちは実際の人格と虚構上の人格のミクスチャーとしているのではないかという仮説。菊地成孔が『アフロ・ディズニー』でやっていたようなお話をもっとシリアスに追求すべきで、部分的には日本のオタク文化における声優とラッパーは似ているが、前者は「キャラ」という部分にひもづけられるのに対して、後者は実際の人物にひもづけられる点など異なっている。

3は最終的には認知科学が扱う領域。我々は顔や見た目だけではなく、かなりの部分、人間の声によって人の人格や個性を読み取っている。だからこそ声優などの芸が可能であり、それがいったいどういう現象であるのか。

4はどちらかと言えば、アニメーションや映画の表現論になると思われるもので、異なるテキストに合われる同一の声優が作品にどのような影響を用いるのか。既に鑑賞者側には「同一の声優」という認識があり、当然、キャスティングにおいても重要な決定だ。だが、その部分を追求した批評とかあまり読んだことないのであったら教えてほしい。

 

以上のように声優、及び人間の声に関しては非常に興味がある。まあ講義ではデス声の話をして、そっちへの食いつきが悪かったのが残念なんだけどね。