Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

現代のタイの音楽がおもしろすぎだった

バンコクに旅行してきたのだが、すごく美味しくて安いイサーン料理の食堂でかかっていた音楽に惹かれた。それは歌謡曲のような節回しでいて、ラップのようなフレーズがあり、なぜかバックバンドはスカのような不思議な音楽だった。たまにシンセのフレーズが入ったりするのも面白い。Twitterで適当に聞いてみたところ、すぐに「ルクトゥーンかモーラムではないか」と指摘が入った。

前提としてルクトゥーンというのはタイの歌謡曲に当たる音楽ジャンルにようで、要するに戦後のロック・ポップスに影響うけたタイ国産音楽のようだ。対してモーラムはタイの東北地方(イサーン)の伝統音楽だが、その後、ルクトゥーンからの影響をうけて独自に進化していったようだ。

上の動画がおそらく伝統的なモーラム。ケーンと呼ばれる笛と打楽器で比較的アップテンポの音楽だ。どうも伝統的なモーラム自体にラップのようなフレーズが入っているらしく、たしかに歌もどこかリズミカル。

これらのモーラムがルクトゥーンの影響下でエレキギター、ベース、シンセサイザーなど加わり、いつしか独自な歌謡曲のような音楽になった。さらにもともとなのか、西洋の影響を受けたのかわからないが、リズムが明白にスカのようなツービートになった。これが面白い。メロディは歌謡曲のようなマイナー調でそこに軽いギターやシンセがのりつつ、スカのビートがなる。さらにブラスあたりの入れ方はファンクっぽい。ボーカルはラップのような雰囲気の男声と歌謡曲のような女性が交互に入り、ライブセットであるからか全体としてはかなり長い。この辺りもフェラ・クティのアフロビートみたい。

これなんかもローカルなバンドみたいけど、シンセのパーカッシブなフレーズのせいで怪しいニューウェーブバンドみたいな雰囲気がある。実際に最近のバンドになると、モラーンをやっているのかどうかはよくわからないが、明白にスカを押し出すのがかなり見つかるのである。

Bie The Skaという名前もそのままなバンド(?)タイ語が読めないからまったく情報が漁れないが、歌謡曲っぽいメロとリフをうまくスカにまとめており、PVもかなり楽しい。どうもタイは女性に憧れるダメな男性という構図がドラマやPVでも多く、これもそれを踏襲している。

こちらもモーラムなのかわからないが、明白にスカのリズムにラップのようなボーカル。フック部分にはダブステップっぽいリフ(ベースが弱いがw)の上でラップ。PVの内容はコミカルな感じだが、どうも出稼ぎ労働者っぽいネタが頻出している。良い感じに下品な音楽に仕上がっていて大変楽しい。

イサーンという地域は上の動画のように自然あふれる素晴らしい土地らしいが、タイにおける貧困地域であるらしく、バンコクにはイサーンからの出稼ぎがたくさんいるらしい。そういうこともあってモラーンはイサーン人の郷愁、哀愁、そして抵抗を意味する重要なものらしい。出自もあってヒップホップ的な側面を感じる。

すごくたまたま「爆音映画祭2016 特集タイ|イサーン」というイベントでイサーンのことを扱った『バンコクナイツ』という映画を上映するようだ。なんというか素晴らしいタイミング。いろいろわからないことがあるので、もっと知りたいところである。

 

極私的BitSummit 2016の感想

今年はBack in 1995のお手伝いという形で参加しました。いつもと違って出展者側の気持ちがわかって面白かったね。とりあえず、床柔らかくしよう......。E3ほどまでいかなくてもいいけど、みやこめっせ硬いよ!

以下は極私的な感想。ただの日記みたいなもんだ。

 

BitSummitはフジロックだ、よくも悪くも......

何より運営がやばい。こっちは出展者側だが2日目前くらいまでステージイベント等の情報も公開されなかった(笑)。メディア側もこれじゃ取材のスケジュール組めないよ!!

でもすごい。お客さんは別に何があるのかよくわからなくてもとりあえず来る。まさにフジロックが目指した「アーティストを見に来るのではなく、俺のイベントに来い!」状態だ。これができるならば、もうむしろ何も発表しない方向でいいんじゃないか。とりあえずBitSummit来たら今の日本のインディーがわかる!みたいな。

ということで、お客さんはとてもたくさん来た。Back in 1995は場所も良かったので常にプレイしてくれる人がいた。外国人もいたから英語での説明はなかなか良い機会だ。VRなんて列並んでて1時間待ちとかあった。なんだこのイベント。

メシがうまかった、メシがうまかった大事なことですので2回言いました!

これマジ本当。会場内には地元の食べ物やさんのカレーとトルティーヤとハンバーガーとかあった。特にQ GamesのDEAD HUNGRYというVRゲームとコラボしたハンバーガーが大人気。俺は並ぶ暇がなくて、カレー食ってたら目の前にQ Gamesの社長さんのディランさんが座って、このコラボレーションについてべらべらと教えてくれた(なんと豪華な話であろうか。このクリエイターとの圧倒的な近さもまたBitSummitの醍醐味だ)。

ディランさんによれば、なんかこのコラボは直前に決まったらしい。DEAD HUNGRY自体が社内のゲームジャムで作られた作品だけあって、ゲームも企画も急ごしらえだったようだ。ハンバーガー屋さんはみやこめっせの近くのお店で、以前からもBitSummitの時に利用していたようだが、今回は会場に出展してもらったそうだ。本当はVRのブースのそばでハンバーガーを焼いて匂いもバーチャル(リアル?)だとかやりたかったそうである。(ディランさん商売上手や。これはまちがいない)

で、比較するの悪いけど、TGSのメシはなんとかしろ。いつも高くて大したことのないメシしか食えない。このBitSummitのメシのクオリティはまた出すけどフジロック並でたぶん海外デベロッパーも忘れられない味になるだろう。

プロもインディーもゲーマーも関係ない空間

ディランさんもそうだが、今回は本当に豪華なクリエイターがそこら辺にいる空間だった。もちろん、私はライターという肩書もあっていろんな人に声をかけていただけるのですが、坂口博信さんも五十嵐孝司さんも須田剛一さんも普通にブースにいる。雰囲気的にはサインくらいは気軽に答えてくれそうだし、実際に写真はみんないっぱいとってた。

個人的にはRead Only MemoriesのMidbossの面々やMomodoraの作者rdeinさんに会えたのがよかった。rdeinさんはBack in 1995のデモをクリアするまでやっていったよ!俺も一条さんも英語が下手くそでうまくアテンドできなかったがww

この辺りもTGSと比べると圧倒的にファン目線のイベントだ。それも作られたものではなく、コミュニティとして自然な形の。たぶんPAXに近い存在になっていくんじゃないだろうか。(運営の所々の問題が解消されるならば)

出展作品のレベルは

いろいろとインディーのイベント見てきて、偉そうながら言いますが、正直、日本のインディーは海外とまだまだ差があるのは否めなかったです。特に海外勢はIndie MEGABOOTHで選ばれたタイトルがたくさんあるので、クオリティは非常に高い。また東アジア系のデベロッパーもなかなか力を蓄えてきた感じがある。

翻って日本のタイトルはややおなじみのメンツになっている感は強い。まあTGSコミケやデジゲー博といった機会で会っている人たちなのでしょうがないかもしれない。でももっといろんな人に参加して欲しいとは思うし、日本のインディーはまだまだこんなもんじゃないってのを期待している。

驚きのプラットフォーマー3社の参加

任天堂の参加。一番のビッグニュースだっただろう。まあ以前から個人向けのパブリシングを認めるみたいな方向はあったが、こうもBitSummitに参加するとは思ってなかった。正直、まだまだ課題は多いが(開発、レーティング、審査フロー、ストアでの扱い)見守っていきたいと思う。

Sonyさんは名前を連ねて、ステージに吉田さんがでたくらいで特になにもしてなかった。イトゥーさんいわく、「裏方に回ってサポートしたい」とのこと。まあそれはわかるし、既に何本かインディー発のゲームはPSプラットフォームで出てきた。こちらとしてはとにかくPS4をなんとか日本で普及させてほしいとは思うが。

MSさんはちっちゃなブースでIDプロジェクトの説明をされていたと思う。正直、日本での展開はまだ煮え切らない感じでどうなるかよく知らない。それ以上に国内市場を考えた場合、XboxOneはちょっとありえない。かといってまたWindowsとの統合とかいう話になるのもどうかと思うので、国内インディーの受け皿としてはまだまだ遠い印象だ。 

VRの多さ

これは予想されたことであるが、VRコンテンツは多かったし、レベルも高かったようだ。自分は並ぶ暇もなく、CAVYHOUSEさんのやつだけ見せてもらったくらいだ。

ただ展示に関してはまだまだ課題がある。そもそもVRは大がかりな機材が必要で、センサーの干渉もあり、一般のブースと同じく募集をかけるのは無理がある。かといってVRコンテンツに何枠用意したらいいのか、なかなか難しい問題だ。

今後はVR展示のノウハウが蓄積され、運営側もそれを把握してうまいことやっていっってほしい。

ボランティアの活躍

非常にボランティアスタッフが頑張っていました。出展者側としては非常に助かります。ただSPAREっていう役職がブースの代理人になってくれる人であることは、最期まで気づかなかったです(笑)。

便乗イベントの存在

BitSummitにともなって前日から様々な催しがありました。STGのパーティーや恒例となっているポリポリクラブ。そして物議を醸したMEGABIT CONVENTION。これには残念ながらいけなかったけど、ごく普通の同人ソフト即売会だったようです。

個人的には様々な便乗イベントがあるのは楽しいですが、うまく運営と協調していってほしいと思います。E3なんかの大きなイベントもこういった便乗企画はいっぱいあって、それ自体は非常に面白いです。せっかく京都という場所でやっていることもあって、BitSummitが良いインディーの「エコシステム」となることを願っています。

以下は参考記事

www.gamespark.jp

そしてオフ会と化す

BitSummitの面白さのひとつはやはり関西勢との交流でしょう。クリエイター、アーティスト、社長さん、喫茶店の兄ちゃんも含めいろんな人がいます。いつも会うことができない人たちと絡む貴重な機会となっており、ここでは書けない話が繰り広げられます。なのでやはりBitSummitはロックフェスのように毎年休みを取って合宿するつもりで行くのがいいでしょう。

 

以上、かなり雑に書きましたが、一言でいえば、BitSummitはとても楽しかったです。皆さん、お疲れ様、来年もよろしくね! 

BRAND NEW / Brother's Song 対訳と考察

 2、3日前からヘビロテしているBRAND NEWのBrother's Song。初期EMOらしいギターリフを基調としたバラードなんだが、そのあまりにも美メロに感動して対訳を作ってみた。正直、他の曲はあまり好きじゃないけど、この曲が持つリリシズムは良い。

英語自体は簡単だけど曖昧でいてドラマティックな歌詞で、解釈は難しいが面白い。とりあえず、対訳をどうぞ。

BRAND NEW / Brother's Song

 

So the air's getting colder
空気が冷たくなっていく
And the news keeps us scared
僕らはいつもニュースにおびえ
We still wrestle this summer
未だにこの夏と戦っているんだ
From the bones of our tired and blistered hands
厄介事の原因と火傷した手から

 

'Cause tonight we got drinks
今晩、僕らは飲んでいたんだ
And just a couple of friends
ちょっとした友人たちと
And the girl that my brother likes is finally talking to him
結局、兄貴は好きな女の子と話してた
And his chest is all swelled like he's proud and happy
そして兄貴の胸は大きく膨らむ、まるでその自尊心や幸福感のように
Like he's got a great idea
まるですごいアイデアを思いついたかのように
Like he's making a memory
まるで思い出を作るかのように

 

Wake up and come out to the car
起き上がって車の外に出ようぜ
There's an east swell comin
東の方から波が来る
And it's howling off shore and we'll be
沖の方で風が唸っている
Lying like lions out in the sands
まるでライオンのように、砂浜に横たわろう
But I'll be dead before you put a gun in my brother's hands
だけどお前が兄貴の手に銃を渡すより早く死んでやるからな

 

So we make jokes back at home
家に帰りながら冗談を飛ばす
And we lighten the mood
気分を変えて明るくね
But growing up my parents saw
僕らは成長していたが、両親はわかっていた
What sending a kid to fight can really do
子どもを喧嘩に導くものが何をなしうるのかを


Now with the war I can tell they're a little shook up
今や明白となった争いのため、彼らは少し動転しているようだ
'Cause just a few mother's sons will never really be enough
生まれてきた息子の数は、母にとって決して十分ではないだろう 
Not 'til half of our names are etched out in a wall
姓名の半分を壁に刻み込む寸前まで
And the other half ruined from the things we saw
僕らが見た物事の半分は崩壊した

 

Wake up and come out to the car
起き上がって車の外に出ようぜ
There's an east swell comin
東の方から波が来る
And it's howling off shore and we'll be
沖の方で風が唸っている
Lying like lions out in the sands
まるでライオンのように、砂浜に横たわろう
But I'll be dead before you put a gun in my brother's hands
だけどお前が兄貴の手に銃を渡すより早く死んでやるからな

 かなり曖昧な歌詞なのであるが、サビの最期「But I'll be dead before you put a gun in my brother's hands」でいきなり核心的なフレーズが出てくる。遡って解釈すると、どうやら恐らくこれは恋人をめぐった兄弟喧嘩か何かの物語だろう。

最初の「We still wrestle this summer From the bones of our tired andblistered hands」あたりは現在の目線で、「'Cause tonight we got drinks」は事件当日だろう。そして、サビは恐らくビーチで遊ぶ情景と事件の瞬間だ。「But I'll be dead before you put a gun in my brother's hands」はかなり難しいが、「あなた=死神」とでも取るのが妥当じゃないかな。恐らく兄は自殺とかな気がするが、さすがに誰かが殺すとかだとちょっとウソっぽすぎる(ウソだろうけどw)。「Lying like lions out in the sands」の語呂と情景描写が素敵だ。

その後は親の視点。この辺りは巧みだ。最初、「'Cause just a few mother's sons will never really be enough」あたり何言っているのかさっぱりだったけど、たぶん兄弟の一方が死んだことの遠回しの表現だ。次の「Not 'til half of our names are etched out in a wall」が墓銘を意味するからたぶんあってる。

さあまあこんなとこだろうけど、やっぱこれすごいいい曲ですね。

 

 

 

一体感という名の幻想と美的判断

もうだいぶ前になるが、お台場の「Game On」に行ってきた。ああいった展覧会ができるのは本当に素晴らしいと思うけど、会場は展覧会というより無料のゲーセンという雰囲気だった。ただゲーセンより殺伐した空間じゃなくて、来場者が一緒に空間を楽しむような雰囲気になっていた感じがして、展覧会としてはどうかなと思ったけど、これはこれで楽しい。個人的にはアメリカでいったBarcadeみたいなのに近いと思う。なんとなく、格ゲーで知らない人と対戦したりするのはなかなか楽しい。ああいった空気を持つところはもっと増えて欲しいと思う。

中でも一番、楽しかったのは『The Beatles: Rock Band』のプレイ。これはギター、ベース、ドラム、ボーカルで演奏する音ゲーRock Bandビートルズ版なんだけど、なんとなく集まった客が「俺はギター」、「私はドラム」って感じで楽器を持ち、「ツイスト・アンド・シャウトならわかるよ」って感じで曲を決めて演奏する姿は、出来立てホらヤホヤのバンド見たくて微笑ましい。俺も2回くらいプレイした。ビートルズなら誰でも2、3曲は知っているから、初対面でも音楽を通してコミュニケーションできる。そういう空気が生まれる瞬間には素直にグッときてしまうものだ。

実際にはこういった感覚はありふれたものだ。個人的に印象深いのは、文化祭での学内バンド。俺は軽音部に所属していたのだが、文化祭に間に合わせるため、やりたくもない相川七瀬(なんと!)のコピーバンドとかやらされた(しかもメインのギターじゃなくてドラムで)。もちろん、練習もサボりまくりで本番もひどいもんだった。でもそんないやいややっているバンドでも、一瞬、みんなの空気がピタッと合うときがある。俺はドラムでかなりミスっていたけど、たまにタイミングがあってグルーブが出たりすると、ニヤっとしてしまう。「クソ、相川七瀬なのになんでおれは嬉しいんだッ」って感じに。

音楽にはいろいろな楽しみがあるけど、音楽演奏の楽しみは必ずしも音楽そのものの良さに由来しない。別に好きでもない曲だって、他の人との一体感が生まれると人間はなぜだか嬉しくなってしまうものだ。音楽じゃなくてもダンスや祭りのようなものはそう。けだし、人間は一体感に非常に弱いのだ。ぶっちゃけタイムラインで「バルス!」って言っているだけでも楽しい人は日本に数百万いるわけだし。

物事を深く見つめ、作品の良し悪しを吟味する立場からいうと、このような一体感は幻想というと言い過ぎかもしれないが、道を迷うわせるものである。たとえ俺が相川七瀬の演奏でバンド仲間との一体感にグッと来たとしても、やっぱり相川七瀬の曲は糞だし、音楽としてグッとくるわけじゃない。(まあ織田哲郎の職業的なソングライティングはそれなりに巧みだが、あの時代にしてもあのコード進行やギターリフはねーよと思ってた。その後、ナンバーガールの曲『タッチ』でなかばネタ的に似たようなフレーズが使われたがw)。

同じことはダンスにもゲームにもアニメにも映画にも言えるはずだ。当然ながらタイムラインで一斉に「バルス!」と叫ぶ楽しさは『天空の城ラピュタ』の良さを正当化しない。そんなもんで正当化されたら宮﨑駿だったいやだろう。TVアニメを実況しながら見ることが何かしら楽しいからといって、必ずしもそのアニメが良いのではない。みんながやっているからといってそのゲームが素晴らしいのではない。そうなのだ!そうなのだ!

ゆえに物事を深く見つめ、作品の良し悪しを吟味する立場からいうと、一体感は毒である。それらは道を迷わせる。正しい批評をしたいものは、山にこもって作品を吟味する必要があるのだ。

しかし、それでは冒頭の『The Beatles: Rock Band』のようなそもそも一体感を楽しむべきゲームはなんなんだろう。また多くのアナログゲームがその楽しさの要素に社交的なものを含んでいるように感じられる。これへの回答は恐らく2つあり、それら一体感の楽しさをそれをアフォードする作品の美点とみなすか、またはそれらは鑑賞ではなくプレイであるため作品批評とは関係ないとするかである。私は後者の立場にシンパシーを感じるものの、いくつかのゲーム(特にアナログゲーム)に関して後者の立場をとることは不適切であるようにも当然思える。

それともゲームのようなものはやはり、通常の作品とはことなるモデルで考えるべきなのだろうか。クソゲーも仲の良い友達とやれば楽しいというのは事実だ。しかしながら、個人的には普遍的妥当性というカントの黄金率に照らしてゲームも評価したい。The Beatles: Rock Band』のようなゲームはその信念を揺さぶるようなところがあり、非常にいかんのである。

 

Synthwave:ビデオゲームによって再解釈されたエイティーズ

サイバーパンクバーテンダーゲーム『VA-11 Hall-A』リリースおめでとう。このゲームはプロローグ版から応援してたし、TGSでも見に行った(そしたらなんと自分が大好きなゲームの開発者がパブリッシャーになってたからおどろいた)。我々にとってのこのゲームの魅力はやはり日本カルチャー再解釈だろうと思う。ビジュアル、キャラクター、音楽、あらゆる点で日本的モチーフが見出される。

中でも今回はその音楽について調べてみた。ビデオゲームによって再解釈された音楽ジャンルSynthwaveである。

Synthwaveっていうジャンル自体はなんとなく知っている人はいるだろう。なんかあの80年代的なアレで、ゲーマー的にはHotline Miamiのサウンドトラック(及びが一番わかりやすいだろう。

ちなみにBandcampではその派生ジャンルのVaporwaveが異常に人気で、『VA-11 Hall-A』のサウンドトラックにもそのタグが貼られている。この2つのジャンルの違いを正確に言い当てるのは難しいけど、まあどちらも80年代をテーマにしているが、後者の方はかなり悪ノリしているのは確かだ。

 で、Synthwaveだけどその出自について、Wikipediaの記述はなかなか面白かった。

Synthwaveは、Retrowaveとも呼ばれるが、2000年中頃に発生した音楽ジャンルである。1980年代のサウンドトラックに影響を受けている。

スタイル

音楽的には、Synthwaveはニューウェーブと1980年代の映画、ビデオゲーム、カトゥーン(アニメ)、テレビショウのサウンドトラックに強く影響を受けたものである。John Carpenter、Vangelis、Tangerine Dreamといったコンポーザーはその影響もととして度々、言及される。基本的にはインストゥルメンタルであり、しばしば電子ドラム、ゲートリバーブ、アナログのシンセベース、シンセのリードといった80年代的クリシェを含んでおり、当時のトラックに似せようしている。しかしながら、Shythwaveはエレクトロハウスのような現代的電子音楽において使用されるサイドチェインコンプレッション(コンプレッサーのエフェクトレベルを他のトラックでコントロールする手法)やベースラインとキックの特徴的な配置といった現代のサウンドプロダクションの技術を取り込んでいる。

美学的にはSythwaveは1980年代のSF、アクション、ホラー、またときおりサイバーパンクといったものを再現するレトロフューチャー的視点を与えてくれる。Synthwaveは1980年代文化のノスタルジーを表現しており、その時代の空気をつかみとり、称揚する。こういった美学が現れている事例としては、Kung Fury、Turbo Kid、Drive、Hotline Miami、Far Cry 3: Blood Dragonといった映画やビデオゲームがあげられる。

背景

2000年代の後半を通して、1980年代と1990年代初頭のサウンド、特にニューウェーブとシンセポップをリバイバルしようとするアーティストたちの情熱が存在した。この時代、Telefuture RecordsのようなSynthwaveに似たレトロなジャンルのアーティストをリリースすることにメインフォーカスしたインディーレーベルが現れた。

David GrellierによるプロジェクトCollege、さらに彼の共同プロジェクトValerie Collective、Kavinsky、Lifelike、Anoraakといったフランス人の活動は初期Synthwaveのパイオニアとして貢献した認知されている。これらの初期のアーティストは1980年代の有名なコンポーザーに影響を受けた音楽を作り始めたが、当時はフレンチハウスとの関係が強かった。Anoraakは2014年の後のインタビューで「アメリカのポップカルチャーはまさしく子供時代の俺のバックグラウンドを作ったよ。俺は1980年生まれだけど、アメリカの音楽と映画に囲まれた世界で育った」と語っている。スウェーデンのアーティストMitch Murderは2009年に活動を開始した初期のアーティストであるが、Synthwaveのサウンドの部分としてビデオゲームの音楽を持ち込む道を切り開く一助となった。2010年にデビューしたレトロなシンセサウンドのCom Truiseもまた彼の音楽をSyhthwaveとして言及してきた。

2011年に公開された映画Driveは、いくつかのSynthwaveのアーティストをフィーチャーしている。そして、本作のファンとアーティストをこのジャンルに向かわせるきっかけとなった。

このジャンルへの新しいアーティストの様々な影響を受けて、いくつかのアーティストは初期のアーティストによって作られたSynthwaveの特定の側面へと引き寄せられ、ジャンルと関わるアーティスト間の様々なスタイルの違いを作っていった。KavinskyによるダークなサウンドはPower Glove、Perturbatorのようなアーティストによって引き継がれ、College、Lifelike、AnoraakのようなよりリラックスしたサウンドはFuturecop!、Robert Parkerのようなアーティストによって続けられた。

ポストハードコアバンドのFightstarのAlex WestawayとDan HaighはSynthwaveのサイドプロジェクトGunshipを開始して、セルフタイトルのデビューアルバムは2015年の6月24日にリリースされた。

Synthwave - Wikipedia, the free encyclopedia

 このジャンルが使われだしたのは結構、最近のことだと思うが、この記事ではゼロ年代後半のフランスのValerie Collective一派について触れられている。同時代的には彼らの音楽は80年代レトロスペクティブなフレンチハウスやシンセポップ扱いされてたと思うけど、今は遡及的にSynthwaveのパイオニアとされている。なぜかというと彼らの音楽を使用した『Drive』がヒットして、それに影響を受けた『Hotline Miami』がヒットして、そこからSynthwaveが流行ってきたからみたいな感じだ。

もちろん、Wikipediaの記述はそんなにあてならないし、これだって独自研究扱いとかされてるが、個人的な実感からもこの解釈はわからなくない。

というのは、Valerieは確かに80年代に傾倒してその時代のテクノロジーや映画を参照していた。だがその後の世代はさらに80年代に普及したポップカルチャーとしてのゲームにコミットするようになったからだ。Kavinskyなんか実際ゲーム作ってたし。

ともあれ、このジャンルに対してビデオゲームが与えた影響が大きいというのはなかなか面白い。だってゲーム音楽が音楽に影響うけることはあっても、その逆はあんまりなかったからね。

誰得ゲームレビュー3:『Downwell』における一面番長という青春の果実

「一面番長」という言葉がある。ケイブが出したスマートフォンSTGのタイトルにもなったんだけど、今日はそれはとりあえず置いておこう。(『怒首領蜂最大往生』の世界観でYGWシューってのはみんな驚いてたね。ある人が「怒首領蜂なのに怒首領蜂らしくない」って言ってて面白かった。YGWシューだからしょうがない。)

今回は別にSTGの話をするわけではない。いつもSTGの話はしている。今回は『Downwell』について極私的なポイントから話したいのだ。

日本が誇るインディークリエイターとして華々しくデビューしたもっぴん氏が作る本作。期待を裏切らない素晴らしいアイデアを素晴らしいデザインでまとめた本当に傑作だった。正直、「微妙なできだったらどうしよう」とか思っていた。デビュー前から過剰に褒めるのはやめようと思っていたんだけど、完全な杞憂。すまんかった、もっぴん、結婚しようよとさえ思うような出来だったのである。

で、『Donwell』のどこが素晴らしいかっていろいろあるんだけど、個人的にはこれだ。一面番長なんだよ。このゲーム、ステージで蓄積したリソースを後半のボスで一気に投入するというタイプのゲームで、非常にアーケードSTGっぽいんだけど、この序盤のリソース蓄積にコンボの要素がある。地面に足をつかずに敵を連続して殺していくとボーナス点が入るというやつだ。いわゆる「ゲットポイントシステム」。あ、知らない...。怒首領蜂のコンボシステムの正式名称なんだけどね。

ともかく、このコンボシステムが非常に熱いわけだ。うまく敵を殺していけばポイントをガシガシ蓄積でき、そのポイントでアイテムを購入。ガンブーツっていうミクロなゲームデザインの部分に称賛がいきがちだけど、俺としてはもっぴん君のアーケードゲーム的なマクロなレベルデザイン部分にも非常に才能を感じてしまう。(次回作はぜひともSTGも頼む...切に)

しかしその代償として、やってしまうんだよな。捨てゲーを...。つまり序盤であまりにも糞プレイをしてしまったら、すぐにリセット、コンティニュー。最低でも1ステージで8コンボを2回は決めなきゃ、続けてやる気がでないわけ。

で、こうかくとなんか『Downwell』難しいだけのゲームじゃんって思うじゃん。違うんだよ。捨てゲーしてまでも、コンボ狙うのが楽しいんだよ。そもそも序盤でのリソースの蓄積自体が楽しくできているからこそ、捨てゲーしてでも完璧なプレイを狙う。結果、俺は一面番長、ならぬ洞窟番長になっていくんだ。

振り返って一面番長になっちゃうゲームってたいてい素晴らしいゲームなんだと気づく。たしかに『斑鳩』は難しくて、ラスボスまで残機2つはキープしないとクリアは困難。そのためスコアラーじゃなくても1、2面はチェーンコンボでスコア稼がなくてはいけない。ほとんどの斑鳩プレイヤーは一面番長時代を経験する。ただし、それは繰り返し遊ぶことが楽しいからこそであり、ゲームに慣れて、本質に気づく重要なフェイズなのだ。

『Downwell』もおんなじだ。シンプルなコンボシステムだけど、敵を連続して踏み殺しのは楽しいし、SEも素晴らしい。そして3面4面になると、このコンボテクニックは必須となる。一面番長は実はクリアのための近道でもあるのだ。さらに言えば、『Downwell』はこれをランダム生成のレベルデザインでやっているからちょっとすごい。まあゲーム自体を長くすることはできないけど、マクロな部分でプレイヤーのテクニックを向上させるデザインがなされているんだ。

つまり、一面番長してしまうゲームは良いゲーム。それはゲームメカニズムの本質を掴む青春時代なのだ。

発明と創作、あるいは私がいかにVRに(まだ)期待していないかについて

芸術も技術もその語源においては同一であるということは、美学の授業で最初に習うことだ。ともあれ、我々が発明と呼んでいることと創作と呼んでいることの違いは、その形而上学的本質はどうであれ、日常的なレベルで十分に理解可能だ。

蓄音機はエジソンによって発明された。アビーロードビートルズによって創作された。ラルフベアはオデッセイを発明したし、ハワード・スコット・ウォーショウはETを創作した。グーテンベルク活版印刷を発明し、シェークスピアは四大悲劇を創作した。これらの区別には何も問題がないように思える。

発明は発明であれど、十分に創造的で創作行為である、と言われれば同意しよう。確かに手と道具を動かしていれば、発明ができるわけではなく、それは高度に知的で感性的な活動だろう。むしろ発明の方がより創造的とみなす人がいても不思議ではあるまい。それに比べて芸術家のやることは出来合いの技術の上で与えられたものを並び替えるだけにすぎないのではないだろうか。

しかし誤解してならないのは、この違いは価値的な問題ではないということだ。発明と創作はどちらも創造的行為であるが、どちらか一方がより創造的で価値があるというわけではない。両者は共に広い意味では創作行為であるが、創作者が自らの創造力を発揮するレイヤーが異なっている。その結果として、我々がそれらを評価するレイヤーも異なっているのだ。

発明と創作のもっとも重要な違いは、前者は技術(テクノロジー)そのものを生み出すのに対して、後者は技術の上で表現される、もしくは媒介されるという点にある。エンジンは蓄音機という録音可能な技術を作った。その後、一般化したレコードという技術に対して、ビートルズ(及びジョージ・マーティン)はマルチトラックレコーダーなどを駆使してレコードの上で表現される新しい音楽を創作した。Atari社はカートリッジ式家庭用ゲーム機を発明して、その技術の上でハワード・スコット・ウォーショウはETを創作した。これらの発明と創作に対する法的保護措置として、特許と著作権という別な制度が用意されていることも指摘できよう。(初期、ビデオゲームではハードとソフトが未分化であったため、これらの発明と創作が同時に行われたこともあろう。ただし、それでも区別はつくことにはかわりはない。)

発明が生まれたとき、ある種の技術的な熱狂が生む。「このテクノロジーが我々の未来を変える」、「これが普及することで莫大な利益がもたらされる」。実際に成功した発明は、当然ながら我々の文明を前進させてきた。活版印刷、蒸気機関、電気、レコード、ビデオゲーム。しかしながら、90年代以降注目されることになった技術史からは、これらの発明が普及するのは順風満帆ではなかったことが知られる。有名どころはここでもエンジンの蓄音機であり、彼はこの道具を音楽の録音再生メディアとして見ていなかったのである。それよりも彼は蓄音機が音声メモや著名人の肉声を録音することに価値を置いていた。またレコードが普及したのはその後のベルリナーのグラモフォン以降であり、円盤型のメディアによって保管が簡単になったことが大きいのである。

いずれにして発明と創作は異なっている。発明は創作の可能性を生み出すことはあっても、直接、我々を感動する体験は生み出さない。すごく簡単に言ってしまえば、技術とコンテンツは別なのである。当たり前だが。

長い前フリからやっとVRの話をしよう。私、自身、ゲーム業界の中で様々なVRコンテンツを試してきたが、正直なところ、これはまだ技術でしかない。確かに技術的にはかなり成熟している。しかし、この技術を用いた創作に革新が訪れるのはまだ先であろうと思う。ベルリナー式のレコードや電気録音が普及したのは30年代頃だが、ビートルズがそれら技術の潜在的能力を引き出したのは60年代だ。立体視の映画が生まれたのはかなり古いが、それらを映画の文法に落とし込んだ作品は最近でも少数の事例しかない。技術によって媒介されるところ「美しい技術(beaux arts)」は当然ながら遅れてやってくる。

またVRの応用性について現在では多数の案がさけばれている。ゲーム、映画、医療、会議、ポルノ。これはこの技術の可能性の幅が広いということを意味するのではなく、端的に「用途がまだわからない」のである。まさに蓄音機登場時のエンジンと似たような状況だ。おそらくいくつかの用途は断念され、実際にVRが用いられるのは2、3の領域だけだろう。今のところ、ゲームがいちばん有望であるのは、ゲームは形式と目的において他のジャンルよりも圧倒的に自由なだけだ。実際のVRゲームはこれまで培われてきたビデオゲームに比べると、正直なところ魅力は少なく、ただそれはインタラクションがあるという意味でゲームと呼ばれているだけだ。(「VRコンテンツ」という中立的な呼称はそれが何かわからないための言い訳めいた言葉に聞こえる。)

VRゲームにしてもまだまだ解決しなければいけないことは多い。VRデバイスによってコントローラーの方式は違うが、概ね従来のビデオゲームに比べて以下の問題を抱えている。移動操作、UIの表示、プレイヤーをアフォードする文法、カメラとカット割り。実際のところ従来のビデオゲームは、これらの問題を50年かけて解決し、その表現を洗練させてきた。現在、主流となっているゲームの移動操作やUIの表示、プレイヤーを誘導する技術、カメラワークは最初からあるものではない。カット割りが映画にとって文法であるとおり、ビデオゲームにとってもそれらは文法であって、長年培ってきたものだ。

VRゲームはこれらの問題を少しずつ解決していくことになるだろう。時代のあるところにビートルズのような才能が現れ、我々の思いもよらない方法での「技術の利用法」を発見するかもしれない。しかし、いくら時代のスピードが早くなったとしても、既存のビデオゲームが50年かけて培った技法に到達するには、やはり10年はかかると思われる。つまり、これが私がいかにVRに(まだ)期待していないかについての理由である。

別に業界に冷水を浴びせかけたいのではない。しかし、今のVRの熱狂とは過去に何度もあった技術に対する熱狂である。もちろん、それにより大きな資本が動き、技術進化の速度が加速することは悪いことではないだろう。だが、エンドユーザーの立場に従えば、我々はまだまだフラットなモニターで満足できるだろう。