Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

Synthwave:ビデオゲームによって再解釈されたエイティーズ

サイバーパンクバーテンダーゲーム『VA-11 Hall-A』リリースおめでとう。このゲームはプロローグ版から応援してたし、TGSでも見に行った(そしたらなんと自分が大好きなゲームの開発者がパブリッシャーになってたからおどろいた)。我々にとってのこのゲームの魅力はやはり日本カルチャー再解釈だろうと思う。ビジュアル、キャラクター、音楽、あらゆる点で日本的モチーフが見出される。

中でも今回はその音楽について調べてみた。ビデオゲームによって再解釈された音楽ジャンルSynthwaveである。

Synthwaveっていうジャンル自体はなんとなく知っている人はいるだろう。なんかあの80年代的なアレで、ゲーマー的にはHotline Miamiのサウンドトラック(及びが一番わかりやすいだろう。

ちなみにBandcampではその派生ジャンルのVaporwaveが異常に人気で、『VA-11 Hall-A』のサウンドトラックにもそのタグが貼られている。この2つのジャンルの違いを正確に言い当てるのは難しいけど、まあどちらも80年代をテーマにしているが、後者の方はかなり悪ノリしているのは確かだ。

 で、Synthwaveだけどその出自について、Wikipediaの記述はなかなか面白かった。

Synthwaveは、Retrowaveとも呼ばれるが、2000年中頃に発生した音楽ジャンルである。1980年代のサウンドトラックに影響を受けている。

スタイル

音楽的には、Synthwaveはニューウェーブと1980年代の映画、ビデオゲーム、カトゥーン(アニメ)、テレビショウのサウンドトラックに強く影響を受けたものである。John Carpenter、Vangelis、Tangerine Dreamといったコンポーザーはその影響もととして度々、言及される。基本的にはインストゥルメンタルであり、しばしば電子ドラム、ゲートリバーブ、アナログのシンセベース、シンセのリードといった80年代的クリシェを含んでおり、当時のトラックに似せようしている。しかしながら、Shythwaveはエレクトロハウスのような現代的電子音楽において使用されるサイドチェインコンプレッション(コンプレッサーのエフェクトレベルを他のトラックでコントロールする手法)やベースラインとキックの特徴的な配置といった現代のサウンドプロダクションの技術を取り込んでいる。

美学的にはSythwaveは1980年代のSF、アクション、ホラー、またときおりサイバーパンクといったものを再現するレトロフューチャー的視点を与えてくれる。Synthwaveは1980年代文化のノスタルジーを表現しており、その時代の空気をつかみとり、称揚する。こういった美学が現れている事例としては、Kung Fury、Turbo Kid、Drive、Hotline Miami、Far Cry 3: Blood Dragonといった映画やビデオゲームがあげられる。

背景

2000年代の後半を通して、1980年代と1990年代初頭のサウンド、特にニューウェーブとシンセポップをリバイバルしようとするアーティストたちの情熱が存在した。この時代、Telefuture RecordsのようなSynthwaveに似たレトロなジャンルのアーティストをリリースすることにメインフォーカスしたインディーレーベルが現れた。

David GrellierによるプロジェクトCollege、さらに彼の共同プロジェクトValerie Collective、Kavinsky、Lifelike、Anoraakといったフランス人の活動は初期Synthwaveのパイオニアとして貢献した認知されている。これらの初期のアーティストは1980年代の有名なコンポーザーに影響を受けた音楽を作り始めたが、当時はフレンチハウスとの関係が強かった。Anoraakは2014年の後のインタビューで「アメリカのポップカルチャーはまさしく子供時代の俺のバックグラウンドを作ったよ。俺は1980年生まれだけど、アメリカの音楽と映画に囲まれた世界で育った」と語っている。スウェーデンのアーティストMitch Murderは2009年に活動を開始した初期のアーティストであるが、Synthwaveのサウンドの部分としてビデオゲームの音楽を持ち込む道を切り開く一助となった。2010年にデビューしたレトロなシンセサウンドのCom Truiseもまた彼の音楽をSyhthwaveとして言及してきた。

2011年に公開された映画Driveは、いくつかのSynthwaveのアーティストをフィーチャーしている。そして、本作のファンとアーティストをこのジャンルに向かわせるきっかけとなった。

このジャンルへの新しいアーティストの様々な影響を受けて、いくつかのアーティストは初期のアーティストによって作られたSynthwaveの特定の側面へと引き寄せられ、ジャンルと関わるアーティスト間の様々なスタイルの違いを作っていった。KavinskyによるダークなサウンドはPower Glove、Perturbatorのようなアーティストによって引き継がれ、College、Lifelike、AnoraakのようなよりリラックスしたサウンドはFuturecop!、Robert Parkerのようなアーティストによって続けられた。

ポストハードコアバンドのFightstarのAlex WestawayとDan HaighはSynthwaveのサイドプロジェクトGunshipを開始して、セルフタイトルのデビューアルバムは2015年の6月24日にリリースされた。

Synthwave - Wikipedia, the free encyclopedia

 このジャンルが使われだしたのは結構、最近のことだと思うが、この記事ではゼロ年代後半のフランスのValerie Collective一派について触れられている。同時代的には彼らの音楽は80年代レトロスペクティブなフレンチハウスやシンセポップ扱いされてたと思うけど、今は遡及的にSynthwaveのパイオニアとされている。なぜかというと彼らの音楽を使用した『Drive』がヒットして、それに影響を受けた『Hotline Miami』がヒットして、そこからSynthwaveが流行ってきたからみたいな感じだ。

もちろん、Wikipediaの記述はそんなにあてならないし、これだって独自研究扱いとかされてるが、個人的な実感からもこの解釈はわからなくない。

というのは、Valerieは確かに80年代に傾倒してその時代のテクノロジーや映画を参照していた。だがその後の世代はさらに80年代に普及したポップカルチャーとしてのゲームにコミットするようになったからだ。Kavinskyなんか実際ゲーム作ってたし。

ともあれ、このジャンルに対してビデオゲームが与えた影響が大きいというのはなかなか面白い。だってゲーム音楽が音楽に影響うけることはあっても、その逆はあんまりなかったからね。

誰得ゲームレビュー3:『Downwell』における一面番長という青春の果実

「一面番長」という言葉がある。ケイブが出したスマートフォンSTGのタイトルにもなったんだけど、今日はそれはとりあえず置いておこう。(『怒首領蜂最大往生』の世界観でYGWシューってのはみんな驚いてたね。ある人が「怒首領蜂なのに怒首領蜂らしくない」って言ってて面白かった。YGWシューだからしょうがない。)

今回は別にSTGの話をするわけではない。いつもSTGの話はしている。今回は『Downwell』について極私的なポイントから話したいのだ。

日本が誇るインディークリエイターとして華々しくデビューしたもっぴん氏が作る本作。期待を裏切らない素晴らしいアイデアを素晴らしいデザインでまとめた本当に傑作だった。正直、「微妙なできだったらどうしよう」とか思っていた。デビュー前から過剰に褒めるのはやめようと思っていたんだけど、完全な杞憂。すまんかった、もっぴん、結婚しようよとさえ思うような出来だったのである。

で、『Donwell』のどこが素晴らしいかっていろいろあるんだけど、個人的にはこれだ。一面番長なんだよ。このゲーム、ステージで蓄積したリソースを後半のボスで一気に投入するというタイプのゲームで、非常にアーケードSTGっぽいんだけど、この序盤のリソース蓄積にコンボの要素がある。地面に足をつかずに敵を連続して殺していくとボーナス点が入るというやつだ。いわゆる「ゲットポイントシステム」。あ、知らない...。怒首領蜂のコンボシステムの正式名称なんだけどね。

ともかく、このコンボシステムが非常に熱いわけだ。うまく敵を殺していけばポイントをガシガシ蓄積でき、そのポイントでアイテムを購入。ガンブーツっていうミクロなゲームデザインの部分に称賛がいきがちだけど、俺としてはもっぴん君のアーケードゲーム的なマクロなレベルデザイン部分にも非常に才能を感じてしまう。(次回作はぜひともSTGも頼む...切に)

しかしその代償として、やってしまうんだよな。捨てゲーを...。つまり序盤であまりにも糞プレイをしてしまったら、すぐにリセット、コンティニュー。最低でも1ステージで8コンボを2回は決めなきゃ、続けてやる気がでないわけ。

で、こうかくとなんか『Downwell』難しいだけのゲームじゃんって思うじゃん。違うんだよ。捨てゲーしてまでも、コンボ狙うのが楽しいんだよ。そもそも序盤でのリソースの蓄積自体が楽しくできているからこそ、捨てゲーしてでも完璧なプレイを狙う。結果、俺は一面番長、ならぬ洞窟番長になっていくんだ。

振り返って一面番長になっちゃうゲームってたいてい素晴らしいゲームなんだと気づく。たしかに『斑鳩』は難しくて、ラスボスまで残機2つはキープしないとクリアは困難。そのためスコアラーじゃなくても1、2面はチェーンコンボでスコア稼がなくてはいけない。ほとんどの斑鳩プレイヤーは一面番長時代を経験する。ただし、それは繰り返し遊ぶことが楽しいからこそであり、ゲームに慣れて、本質に気づく重要なフェイズなのだ。

『Downwell』もおんなじだ。シンプルなコンボシステムだけど、敵を連続して踏み殺しのは楽しいし、SEも素晴らしい。そして3面4面になると、このコンボテクニックは必須となる。一面番長は実はクリアのための近道でもあるのだ。さらに言えば、『Downwell』はこれをランダム生成のレベルデザインでやっているからちょっとすごい。まあゲーム自体を長くすることはできないけど、マクロな部分でプレイヤーのテクニックを向上させるデザインがなされているんだ。

つまり、一面番長してしまうゲームは良いゲーム。それはゲームメカニズムの本質を掴む青春時代なのだ。

発明と創作、あるいは私がいかにVRに(まだ)期待していないかについて

芸術も技術もその語源においては同一であるということは、美学の授業で最初に習うことだ。ともあれ、我々が発明と呼んでいることと創作と呼んでいることの違いは、その形而上学的本質はどうであれ、日常的なレベルで十分に理解可能だ。

蓄音機はエジソンによって発明された。アビーロードビートルズによって創作された。ラルフベアはオデッセイを発明したし、ハワード・スコット・ウォーショウはETを創作した。グーテンベルク活版印刷を発明し、シェークスピアは四大悲劇を創作した。これらの区別には何も問題がないように思える。

発明は発明であれど、十分に創造的で創作行為である、と言われれば同意しよう。確かに手と道具を動かしていれば、発明ができるわけではなく、それは高度に知的で感性的な活動だろう。むしろ発明の方がより創造的とみなす人がいても不思議ではあるまい。それに比べて芸術家のやることは出来合いの技術の上で与えられたものを並び替えるだけにすぎないのではないだろうか。

しかし誤解してならないのは、この違いは価値的な問題ではないということだ。発明と創作はどちらも創造的行為であるが、どちらか一方がより創造的で価値があるというわけではない。両者は共に広い意味では創作行為であるが、創作者が自らの創造力を発揮するレイヤーが異なっている。その結果として、我々がそれらを評価するレイヤーも異なっているのだ。

発明と創作のもっとも重要な違いは、前者は技術(テクノロジー)そのものを生み出すのに対して、後者は技術の上で表現される、もしくは媒介されるという点にある。エンジンは蓄音機という録音可能な技術を作った。その後、一般化したレコードという技術に対して、ビートルズ(及びジョージ・マーティン)はマルチトラックレコーダーなどを駆使してレコードの上で表現される新しい音楽を創作した。Atari社はカートリッジ式家庭用ゲーム機を発明して、その技術の上でハワード・スコット・ウォーショウはETを創作した。これらの発明と創作に対する法的保護措置として、特許と著作権という別な制度が用意されていることも指摘できよう。(初期、ビデオゲームではハードとソフトが未分化であったため、これらの発明と創作が同時に行われたこともあろう。ただし、それでも区別はつくことにはかわりはない。)

発明が生まれたとき、ある種の技術的な熱狂が生む。「このテクノロジーが我々の未来を変える」、「これが普及することで莫大な利益がもたらされる」。実際に成功した発明は、当然ながら我々の文明を前進させてきた。活版印刷、蒸気機関、電気、レコード、ビデオゲーム。しかしながら、90年代以降注目されることになった技術史からは、これらの発明が普及するのは順風満帆ではなかったことが知られる。有名どころはここでもエンジンの蓄音機であり、彼はこの道具を音楽の録音再生メディアとして見ていなかったのである。それよりも彼は蓄音機が音声メモや著名人の肉声を録音することに価値を置いていた。またレコードが普及したのはその後のベルリナーのグラモフォン以降であり、円盤型のメディアによって保管が簡単になったことが大きいのである。

いずれにして発明と創作は異なっている。発明は創作の可能性を生み出すことはあっても、直接、我々を感動する体験は生み出さない。すごく簡単に言ってしまえば、技術とコンテンツは別なのである。当たり前だが。

長い前フリからやっとVRの話をしよう。私、自身、ゲーム業界の中で様々なVRコンテンツを試してきたが、正直なところ、これはまだ技術でしかない。確かに技術的にはかなり成熟している。しかし、この技術を用いた創作に革新が訪れるのはまだ先であろうと思う。ベルリナー式のレコードや電気録音が普及したのは30年代頃だが、ビートルズがそれら技術の潜在的能力を引き出したのは60年代だ。立体視の映画が生まれたのはかなり古いが、それらを映画の文法に落とし込んだ作品は最近でも少数の事例しかない。技術によって媒介されるところ「美しい技術(beaux arts)」は当然ながら遅れてやってくる。

またVRの応用性について現在では多数の案がさけばれている。ゲーム、映画、医療、会議、ポルノ。これはこの技術の可能性の幅が広いということを意味するのではなく、端的に「用途がまだわからない」のである。まさに蓄音機登場時のエンジンと似たような状況だ。おそらくいくつかの用途は断念され、実際にVRが用いられるのは2、3の領域だけだろう。今のところ、ゲームがいちばん有望であるのは、ゲームは形式と目的において他のジャンルよりも圧倒的に自由なだけだ。実際のVRゲームはこれまで培われてきたビデオゲームに比べると、正直なところ魅力は少なく、ただそれはインタラクションがあるという意味でゲームと呼ばれているだけだ。(「VRコンテンツ」という中立的な呼称はそれが何かわからないための言い訳めいた言葉に聞こえる。)

VRゲームにしてもまだまだ解決しなければいけないことは多い。VRデバイスによってコントローラーの方式は違うが、概ね従来のビデオゲームに比べて以下の問題を抱えている。移動操作、UIの表示、プレイヤーをアフォードする文法、カメラとカット割り。実際のところ従来のビデオゲームは、これらの問題を50年かけて解決し、その表現を洗練させてきた。現在、主流となっているゲームの移動操作やUIの表示、プレイヤーを誘導する技術、カメラワークは最初からあるものではない。カット割りが映画にとって文法であるとおり、ビデオゲームにとってもそれらは文法であって、長年培ってきたものだ。

VRゲームはこれらの問題を少しずつ解決していくことになるだろう。時代のあるところにビートルズのような才能が現れ、我々の思いもよらない方法での「技術の利用法」を発見するかもしれない。しかし、いくら時代のスピードが早くなったとしても、既存のビデオゲームが50年かけて培った技法に到達するには、やはり10年はかかると思われる。つまり、これが私がいかにVRに(まだ)期待していないかについての理由である。

別に業界に冷水を浴びせかけたいのではない。しかし、今のVRの熱狂とは過去に何度もあった技術に対する熱狂である。もちろん、それにより大きな資本が動き、技術進化の速度が加速することは悪いことではないだろう。だが、エンドユーザーの立場に従えば、我々はまだまだフラットなモニターで満足できるだろう。

 

 

音楽のサブスクリプションサービスに疑問を呈するBandcampのポリシー

2010年代に入って、私の音楽はほぼBandcamp一色であったと言って良い。ことあることにこのサービスの素晴らしさを主張してきたので、ここでは端的に説明しよう。

Bandcampはもともとインディー系のアーティストを支援するための音楽プラットフォームだ。アーティストは自由にページを作成して、音源をアップして、即座に販売が行える。プラットフォーム手数料は10~15%という超低価格。通常、この手のプラットフォームは3割持ってくのが当たり前と考えると、これがどれくらいアーティストに優しいプラットフォームか理解いただけるだろう。(Bandcampについてはここで日本語で詳しく説明している。

ちなみにデジタルだけではなく、アナログ盤、カセットテープ、グッズも売れる。モバイルアプリからはライブラリがストリーミングで聞ける。こういったユーザーの利便性からいってもほぼ最強のプラットフォームといえるだろう。あなたの好きなアイドルソングが流通していないことは別にするならば、だが......。

そんなBandcampが興味深いレポートを出していたので翻訳してみた。

Bandcamp, Downloads, Streaming, and the Inescapably Bright Future

Appleが音楽ダウンロードサービスから撤退するだろうという最近のレポート(後に否定されたが、おそらくある程度の撤退は避けがたいであろう)を踏まえて、Bandcampの今後のビジネスとプランについて皆さんに報告する機会を持とうと思う。

Bandcampは昨年、+35%の成長を達成した。ファンたちは毎月、Bandcampで430万ドルをアーティストに支払い、彼らは一日に約25,000の商品を買い、それは4秒に1枚売れるというペースである(Bandcampのホームページのリアルタイムの購入欄で確認できる)。約600万のファンがBandcampから音楽を購入してきた(彼らの半分は30代以下である)、そして何十万ものアーティストはBandcampで音楽を売っている。Bandcampのデジタルアルバムのセールスは2015年に+14%の成長をしたが、一方で業界全体では-3%の低下を示している。トラックごとのセールスはBandcampでは+11%の成長、業界全体では-13%の低下。アナログは+40%、カセットは+49%、さらにCDであっても+10%の成長を示している(業界全体では-11%の低下である)。もっとも重要なことは、Bandcampは2012年から黒字であることだ(収益がコストを上回るという意味で)。

一方でサブスクリプションモデルの音楽ストリーミングサービスは、たとえ何百万ドルの投資を受け、それを突っ込んだ後ですら、未だ成長可能なモデルであること立証できていない。我々の立場としては、我々がうまくいくと知っている別のやり方を提供していくことに専念していくだけだ。お気に入りのアーティストの生活を心配して、彼らに音楽を作り続けてほしいと望むファンがいる限り、我々はその直接的なつながりをつくることを提供していこうと思う。そして、アーティストの音楽を借りるのではなく、所有することを望むファンがいる限り、我々はそういったサービスを提供し続けていくつもりだ。そして、このモデルが結局のところ、その収益においても我々が今後も続行するモデルなのだ。我々は2008年からそうしてきたし、2028年にいてもそうであろうと思う。ありがとう!

*Bandcampはダウンロードストアではない。我々はストリーミングの利便性を快く受け入れる。Bandcampで音楽を購入すると、デジタルであれフィジカル(Bandcampのセールスの30%はアナログ盤もしくはグッズ販売である)であれ、直接的で透明性の高いやり方でアーティストを支援する楽しみが得られるだけではなく、高音質なダウンロード音源と同時に、AndroidiOSの無料アプリによってすぐに恒久的な音楽ストリーミングを楽しむことができるのだ。Bandcampでの音楽購入は直接的にアーティストを支援し、音楽を所有してアクセスできることであり、それは音楽へのアクセスがストリーミングかダウンロードか、その両方かによらない。そのため、どうか「サブスクリプションサービス」の短縮形として「ストリーミング」という言葉を使わないようにしてほしい。前者は避けがたい技術的な変化であり、後者は未だ実証されていないビジネスモデルであるのだから。

Bandcamp, Downloads, Streaming, and the Inescapably Bright Future « The Bandcamp Blog

 

 要するにBandcampでは音楽のサブスクリプションサービスに懐疑的であり、これまで通り、アルバムやトラックごとのビジネスモデルを続けていくという宣言だ。そして彼らはそれがファンとアーティストをつなぐ一番良いビジネスモデルと信じているようだ。

実際、UIや利便性に加えて、Bandcampのビジネスモデルも非常に洗練されている。あなたは音源を購入するのであるが、Bandcampではこれを単なる消費とみなさない。アーティストへの「支援(support)」とみなすのだ。実際、販売ページを開いてみると...

axiomverge.bandcamp.com

 リンク先に飛ぶと、アートワークの下にsupportedという言葉が見えるだろう。つまり誰がこのアルバムに課金したのかがわかるシステムになっているのだ。ライブラリを可視化する試みはゲーム販売プラットフォームのSteam等でも行われているが、Bandcampは遥かに自覚的にこの可視化がアーティストへの支援というアティチュードを生むと確信しているのであろう。そして上の報告の結果を読む限り、実際に功を奏しているのである。

このBandcampのあり方は、デジタル時代の販売について深い考察を促す。我々はデータを買っているのではないのだ。作り手を支援しているのだ。もちろん、お題目としては常にそういったことは叫ばれてきた。クラウドファンディングやPatreonのようなマイクロパトロネージサービスも似たような発想だろう。しかし、Bandcampは非常に愚直なやり方でそのポリシーを体現している。

 

ゲームにおけるカット割りとは...あるいはコマ割り(序)

前回の記事がわりかし好評を博したので、続きを書こう。あんまり内容には自身がなかったんだが、ああいった観点でビデオゲームを見ている人がいなかったようなので、なんかの出汁になれば良い。

今回、考えてみたいのはカット割りだ。カット割りとは基本的には映画の文法であり、シーンを構成するために複数のショットを分割(カットして)構成することである。現在では当たり前の手法であり、カット割りがない長回しの方が特殊な技法となっているのだが、初期の映画にはカット割りという発想はなかった。リュミエール兄弟の電車のやつとか考えてもらえばそうだし、メリエスの無声映画なんかも基本的には演劇を定点カメラで長回しで撮っているだけだ。

(以後、カット割りという言葉はビデオゲームにおけるカットシーンという概念とは違うことに注意して読んでほしい。混乱するから。)

要するにカット割りとは発明であり、文法である。ロングショットで状況を説明した後、クロースアップで主人公の会話を続けるといったことは、今の人間ならすぐに理解できる映画の文法だが、これは我々がそのような映像表現に慣れているだけであって、自然の産物ではない。ゆえに、映像作品においてカット割りを行うというのは、相応の芸術的な才によってなされるわけであり、下手も上手いも如実に現れるものだ。このあたりは映画史の教科書を読めば書いてあることなので、置いておくとして、ビデオゲームではどうだろうか。

古典的ビデオゲームにはカット割りというのはほとんど存在しないだろう。固定画面シューティング(インベーダーゲーム)や固定画面アクション(パックマン)には画面が切り替わることはない(エンディングとかリザルト画面を抜かせば)。画面がスクロールしたり、ステージが切り替わる類のゲームでもそれらはカット割りというには原始的な表現だ。あくまでもカメラはプレイヤーキャラクターを追い続けており、画面の切り替え(つまりは編集)によって物語が描かれるということは、かなり稀であったのではないだろうか。

私がぱっと思いつく最初期のカット割りは『スパルタンX』のこのシーンである。覚えている人もいるかもしれないが、1分55秒あたりをみてほしい。

これはステージクリア後の演出にあたる場面であるが、主人公が助けるべきヒロインが映っている。主人公も一緒に映っているのはおかしいが、塔の下の階層で戦っているとき、その頃、ヒロインはいかに!という同時間軸の状況をカットを割って伝えていることは確かじゃないだろうか。(この指摘はブルボン小林が本の中でも言及していたように思える。)

この「ヒロインに魔の手が迫る!」という状況を説明するシーンはビデオゲームの本質として枚挙にいとまがない。有名どころでは『ファイナルファイト』におけるオープニングなどは映画的な雰囲気でそれを伝えているだろう。(STGなどでは『フェリオス』におけるステージ間のシーンも同種のものであろう。)

ただ、ゲーム部分のサイドスクロールとまったく関係のないシーンで構成されているため、多くの人にとってはこれがカメラによるカット割りという認識を持たないだろう。肝心のゲームプレイの部分が映画的にできていない限り、カット割りらしいカット割りというのはいかにも難しく、それらはあくまでも補助的な演出として切り離されてしまうのだ。

これはトップビューのJRPGアクションRPGSRPGにも言えることだ。立ち絵などによる演出はあっても、それらはゲームプレイ本体とはどこか別な演出として扱われる。よって、これらのゲームにおいてカット割りという概念が入ることは皆無に近い。むしろこれらのゲームにはカメラという概念は存在せず、トップビューだけにフラットな視点で物語が描かれているわけだ。

例外としての面白い例はPCエンジン版の『ネクロスの要塞』。この作品では戦闘シーンが簡易的なアニメで表現され、味方の攻撃と敵へのヒットがカットが割られることで表現されている。

個人的にこの表現はお気に入りであって、2Dながらも映画的な演出を可能としている。まあ実際にはこの種の表現の代表例はファミコン版の『キャプテン翼』であろう。

さてよくよく見てみると、これはつまりカット割りというよりもコマ割りなんじゃないかと思えてくる。もとがマンガだから当然だが、2Dグラフィックスを場面によって切り替える表現は、我々日本人にとってはマンガという表現によって一番馴染んでいるのだ。

キャプテン翼』はマンガの世界をシミュレーションゲームにうまく落とし込んでいる傑作なのであるが、さらに遡るとこの手の表現は実は日本型のアドベンチャーゲームにたどり着くのではないかと思う。日本のアドベンチャーゲームはホビーパソコンから始まりつつ、堀雄二などによるファミコンへの簡略化によって確立したといえる。当時のファミコンブームによって漫画原作もののアドベンチャーはたくさんあったが、かなり安易にコマ割りをグラフィックスに落とし込んでいるものは多々ある。

これらに変化が生まれるのはやはり3D技術の革新によるものだろう。そのへんについてはまた後で......。  

 

 

 

 

 

ビデオゲームと長回し

映画にはいわゆる長回しという表現技法がある。要するにカットを割らず、フィルムを回しながら長いシーンを撮影する技法だ。役者の集中力とともに複雑なシーン構成能力を求められる。ブライアン・デ・パルマや最近ではアルフォンソ・キュアロンなどの監督がこの手の手法を得意としている。

翻ってゲームにおいてはこの手の表現はありきたりだ。それは当然、ビデオゲームにおいては3Dで作られた空間をカメラは自由に動ける。ステディカムやドリー、クレーンといった道具を使わずとも、カメラは自由に空間を動き回ることができる。役者も人間ではない。プリセットされたモーションを完璧に再現してくれる。ピタゴラスイッチと揶揄されるようなデ・パルマ長回しもそれほど難しくなく再現できるだろう。

また昨今はCG技術のおかげで、映画の世界では現実ではありえない長回しがちょっとした流行りになっている。代表例では3D映画としても傑作のキュアロンの『Gravity』。

ゲーマーならば10割の人が「ゲームだろ」って思うようなショットであり、もはや映画の次元から超え出ている。まあCG技術というのは基本的に同じなのでゲームも映画もないのだが。

とはいえ、この観点でこれまで映画史を見つめてみると、「ゲームだろ」っていいたくなる長回しは実際多い。最近、感じたのは一部に熱狂的なファンを持つ『Blues and Bullets』。これは映画みたいなアドベンチャーゲームなんだけど、逆に、なんかこのゲームゲームした長回しは見覚えあるなと思ったらこれが思いついた。

ポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』だ。看板を使ったタイトルショットから斬新な斜めアングルからグルっと街をまわり、もう一つのクラブの看板から中に入り、シームレスに会話が進む。めっちゃゲームっぽい(笑)。『Blues and Bullets』では短めだがオープニングのシーンが似たような構成をとっており、街の風景、看板、ダイナーの中に入り、会話とシームレスに続く。次の動画の5分30秒あたりからをみてもらいたい。

 『ブギーナイツ』の長回しなんかはもう映画の歴史に残るようなかっちょええショットなわけだけど、正直、ゲームの世界では本当に珍しくもない。舞台背景を説明しつつ、そのままカメラをダイアログシーンに移すのはむしろゲームでは安直ではないかと思うくらいだ。つまり、ゲームにおける長回しはそんなたいそうな技法というよりもむしろ怠惰なんじゃないかとすら思えてくる(そもそもFPSはゲームプレイ中は基本的に長回しだ…)。逆に言えば、ビデオゲームにおいては適切なカット割りをいかに行うかの方が難しいんじゃないんだろうか(プレイヤーのインタラクションを阻まないようにという点でも)。

とはいっても、やっぱり長回し長回しで面白い。ゲームにはちょっと映画とは違った手法として利用できるよって教えてくれたのが『Vanishing of Ethan Carter』だ。下の動画はエンディングのシーンで激しくネタバレだが、4分25秒あたりから見れば大丈夫。

 

眠る少年、燃える家、消火活動をする家族、そして美しい湖。室内から始まってどんどん引いていくショットだが、時間は止まっている。非現実的であるが、ゲームをクリアした人ならば、この状況の意味を即座に理解できる切なくも面白い効果を持った表現だ。つまり、ゲームの長回しには映画が持つような「実時間」といったリアリティから一定自由で、カメラが動きまわる間はまさに神の視点として時間が歪むのだ。

『Vanishing of Ethan Carter』は一人称視点であることを非常に強調したゲームであり、本作にはカット割りはほぼないと言って良い(一部演出上の転換はある)。そのため、他のシークエンスにおいても状況説明は長回しの手法によって描かれるが、ほとんどの場合、時間軸は歪んでいるというか、説明上の端折りがある。

まあこのような表現を長回しといって良いかは、微妙なところであるが、シーンがシームレスにつながることによって、舞台や事件の迫真性を伝える効果はあったように思えるのだ。逆に言えば、登場する事件の数々をカットを割って表現したならば、どこか虚構性が増していたような気もする(とはいえ、この作品における虚構性っていう問題は非常にやっかいなんだが…)。

この手の話、次、書く機会があればゲームにおけるカット割りみたいな話を書こうかな。とはいえ、あまりネタは思いつかない。

 

 

ゲームセンターというトポス: 紫煙、筐体、リーマンと

就職して会社員になって、ひとつ経験できて良かったことがある。それは昼休みにゲーセンに寄ることだ。

私はことあることにゲーセン、アーケードへの愛を語ってきたが、それは何もあそこにあるゲームが好きなだけではないのだ。ゲーセンでゲームをするというシチュエーションが好きなのである。

ご存知の通り、日本のゲーム産業には三つの故郷がある。ひとつは任天堂ファミコンに代表される家庭用ゲーム機というルーツ、もうひとつはWindows以前に存在したホビーパソコンというルーツ。そして一番古いのはアーケードというルーツだ。

アーケードというのは一番古いだけではなく、そのアトモスフィアからして独特だ。家庭用ゲーム機は言ってしまえば女子供の世界。しかし、アーケードは常に紫煙と暴力が渦巻く大人の世界であったのだ。(ホビーパソコンが持つ雰囲気についてはまたの機会に考えよう。)

インベーダーハウスの頃からそうであったし、格ゲーブームもそういうアウトロー感があった。正直、田舎の駄菓子のネオジオ筐体で育った私には遠いどこかの世界であったが、漠然として憧れを持っていたのだ。

昨今、ゲーセンはほぼ壊滅的な状況に至っている。存在してもプライズ機とプリクラに押されてビデオゲームは見る影もない。プレイヤーも盛り上がってるとは言い難い。

しかし、幸いにして会社の近くにはビデオゲームをしっかりと設置する店舗があったのだ。かつてのようなアーケードの盛り上がりはないにしろ、リーマンが昼間っからビデオゲームに興じることは不可能ではない。

あぁこの感じ。コンパネに灰皿がある情緒。これが憧れた大人の世界。そう思いつつ楽しむワンコインは格別のものだ。ただのゲームではない。ゲームにもシチュエーションとサイトスペシフィックな楽しみがある。ゲーセンを愛する人は多かれ少なかれそれを知っているのだ。