Dance to Death:死に舞 on the Line

Music and Game AND FUCKIN' ARRRRRRRRT 今井晋 aka. 死に舞(@shinimai)のはてなブログ。

Dischan Media:海外ビジュアルノベルが抱いた一つの夢 2

さてJuniper's Knotに衝撃を受けた私は、当然ながらネットストーキングを始める。すぐにDischanのページは見つかったが、彼らがどういった存在かはあまり理解ができなかった。というのも、彼らはどうも違った出自を持つ、バラバラの集団のようであったためだ。

 Juniper's Knotが作られた2012年はすでに海外ビジュアルノベルの下地はできあがっていたようだ。これにもっとも貢献したと思われるのは一つのソフトウェアである。Ren'Pyは2004年から開発されているビジュアルノベルエンジン。Pythonを基盤としながら「恋愛ゲーム」を作るという意味でRen'Py(レンパイ)という名前だ。

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ツールが普及した結果、英語圏にはビジュアルノベルを制作するネットワークが成立し、フォーラムでは活発な議論と共に多数の作品が作られている。さらに制作者同士コミュニケーションによって、ビジュアルノベルの制作ネットワークは小さいながらも国際的なものに発展していったのである。

ここらへんの展開は日本とはかなり違うように思える。英語という言語の強みを活かした結果、英語圏ビジュアルノベルシーンは急速に国際化したのだ。絵師が東南アジア、プログラミングが北欧、シナリオが北米。そんな感じである。

Dischanもご多分に漏れず、国際的な集団だった。WikipediaによるとファウンダーであるJeremy Millerはもともとカナダの大学生であったようだ。Juniper's Knotのライター兼プログラマのTerrence Smithもおそらく北米出身だろう。CombatPlayerはデンマーク。Doomfestに関しては未だ謎が多いのだが、シンガポールあたりの東南アジアではないかと予想している。(知っている人がいたら教えてほしい)

ともかく、Ren’Pyというソフトウェアによって成立した海外ビジュアルノベルシーンは急速にグローバル化した。今では中国や台湾等の東アジアのビジュアルノベルがSteamで配信されることすら珍しくなっていない。では、そんななかでDischanが目指したビジュアルノベルの姿とはなんであっただろうか。

Cradle Song:開発中止になった正統派学園ビジュアルノベル

話は冒頭に戻る。私がJuniper's KnotをきっかけとしてDischanについて調べた結果、発見したのはCradle Songという作品だ。私が見つけた時点ではまだ開発中であり、プレイアブルデモで遊んだ記憶がある。日常的な高校生活を描きつつ、ホラー要素のある非日常が挿入される点では、デモの段階ではストーリーもイラストもありがちなビジュアルノベルであったように思える。それでもやはりUIやイラストレーションのセンスは一見に値するものだ。

www.youtube.com

 

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本作は実際にはJuniper's Knot以前に開発が開始した彼らの処女作であるはずものであった。しかしながら、詳しい理由はわからないが、開発は中止となった。詳しい経緯はわからないが、どうも彼らには小さな作品であるJuniper's Knotをリリースした後、もう一つの作品であるDysfunctional Systemsに注力するという方針をBlogでは語っていたように思える。

とはいえ、青春学園ブコメとサイコホラーを合わせたCradle Songも十分に魅力的な作品に思える。メインのイラストレーターと音楽は同じくDoomfestとCombatPlayer。シナリオはDischan代表のJeremy MillerとTerrance Smithがつとめる。またChristine Loveの作品のイラストレーターをつとめるRaideも関わっている。

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実際に完成されたのはJuniper's Knotであったが、このころのDischanの公式Websiteには Christine Loveの Analogue: A Hate Storyなどの他のデベロッパーのゲームが販売されるようになった。つまりDischanは単なるゲーム開発チームだけではなく、高品質のビジュアルノベルを販売するプラットフォームにもなろうとしていたのである。おそらくこの時期が彼らの大望「英語圏により良いビジュアルノベルを生み出す」という理想が最高潮にあった時期だろう。その理想のもとに集まったメンバーがゲームを作り、販売して、普及する。そしてついにKickstarterで初の長編作品の開発が始まったのだ…

Dischan Media:海外ビジュアルノベルが抱いた一つの夢 1

いつの頃か、きっかけも忘れたが、私は一時期から海外ビジュアルノベルに興味を持つようになった。ビジュアルノベルという日本特有の表現形式が海外に伝播したということ自体、興味深かったし、Christian Loveのようなクリティカルな作家が生まれてきたことも興味深かった(ここでの「ビジュアルノベル」というジャンル名は正確には日本で言われるところの「ノベルゲーム」というくらいの意味である。正直、言えばこの用法には国内と海外での若干の概念のズレがあるが、ここではそれは置いておく)。

さらに言えば、私が初期に触れた海外ビジュアルノベルが実際のところ非常に高水準であったことも、興味を持つ大きなきっかけになった。その点ではDischan Mediaの存在が大きい。類まれなる才能が集結し、シナリオ、イラスト、音楽、UIすべてにおいて最高クラスのビジュアルノベルを世に問いつつも、一瞬のきらめきを残すまま消え去ったグループ(同人サークル?)だ(後年 Mahou Armsで復活しました!!やった)

商業作品としてはKickstarterのプロジェクトとしてリリースされた未完の『Dysfunctional Systems』のEp1しか残っていない。

 

そのため、彼らの活動を今後知る人は少ないだろう。特に日本人にとってはほとんど歴史の残らない小さな事件かもしれない。このエントリーの目的は少しでも彼らの活動に興味をもってもらい、英語圏におけるビジュアルノベルが抱いた一つの夢を共有してもらうことにある。

 Juniper's Knot:処女作で見せつけた圧倒的な才能

とはいったものの、実際に彼らの活動を事細かく紐解くのは困難だ。公式サイトにあった情報の大部分は、ある事件と共に消されてしまい、メンバーも散り散りになっている。ここで記述するのは私の個人的な思い出と、現在でもアクセスできる情報から再構成された彼らの軌跡の一側面だ。

彼らの活動が最初に世に知られるきっかけは、Juniper's Knotである。少なくとも私はこの作品で彼らに触れたのである。

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本作はWin/Mac/LinuxそしてiOSでリリースされている。私がプレイしたのは有料のiOS版であるが、他のプラットフォームは無料でダウンロードできる。言語は英語の他に有志翻訳で6ヶ国語に翻訳されているが、残念ながら日本語はない。辞書と格闘しながら読む必要があった。

しかしそれでもイラストレーション、音楽、UIの質は一瞬で伝わった。これは素晴らしい作品だと。なんとか理解した物語も短編ながら非常にうまいストーリーテリングだ。むしろ短編という長さを意識したクオリティコントロールがなされており、無料のゲームとしては最高級クラスのものであることは間違いない。

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イラストレーションは見ての通り、やや厚塗りだが日本のキャラクターデザインに近いスタイルだ。ただし立ち絵と調和した背景は昨今の日本のビジュアルノベルでは珍しいのではないだろうか。この素晴らしいアートワークを仕上げたのはDoofmestことSaimon Ma氏。長い間、ファンとして彼を追う私だが、未だに謎めいた存在の彼だがどうやら本職はコンセプトアーティストのようだ。3Dで描かれたハイスペックな画像には彼のビジュアルノベル(やエロを含む二次創作)活動とは異なった一面が現れており、彼が天才的なアーティストであることは一目瞭然である。(追記:彼がKatawa Shoujoの原画メンバーの一人であったことは後で知った。海外オリジナルビジュアルノベルの成立においてKatawa Shoujoが果たした役割は大きいようだ。)

 

音楽はCombat PlayerことKristian Jensen氏。この後も一貫してDischan作品に音楽を提供している。本作では雰囲気に合わせたメルヘンな音楽を提供している。通常はDAWでダンスミュージックを作っていることの方が多いが、Dischanではあくまでもゲームに合わせた作品を提供している。

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そして物語とスクリプトを手掛けるのが、Dischanの主要メンバーのTerrance Smith氏。彼は本作ではたった2名の1場面だけというミニマルなセッティングだけで巧みに物語を展開している。正直なところ、日本のビジュアルノベルに比べると場面転換が少なく、非常に思弁的というか、まるでプラトンの対話篇のように思える。ただこれは彼の持ち味の一つであり、大きな落ちや驚きよりも、じっくりとした会話を読ませるという演劇に近い雰囲気を持つ。さらにUIのセンスも抜群に良い。選びぬかれたフォントに無駄のない構成。作品に素晴らしい統一感が生まれる。

思えばこの時点でDischanの才能は遺憾なく発揮されていた。ただこれが小さなプロジェクトであったからこそ、ここまで統一の取れたの作品を出せたのかもしれない。この作品以降の彼ら活動をそれほど明るいものではなかったのだから…

(読みたい人がいたら続く)

私がSRPGに望むもの3

群像劇とは一般に多数のキャラクターがそれぞれの視点により、物語が展開するタイプのものとされる。しかしながら、この用語法は実際に英語圏と日本語ではややズレた概念として定着している。

英語圏で群像劇といえばグランドホテル形式と呼ばれるものが一般的だ。これは同名の映画作品から取られた名称であって、同一舞台内での登場人物の人間模様を描いた物語形式として理解されている。しかしながら、日本語でいう群像劇はもっと大雑把に多数のキャラクターがそれぞれの視点によって話が展開するようなものとされる。やや強調した形だが、ブギーポップシリーズなどが典型的だろう。

ビデオゲームが視覚的芸術形式であるため、個人的には英語圏の群像劇、つまりグランドホテル形式がSRPGを分析するには妥当であると思う。そうではないにしても、SRPGは小説の群像劇のようにキャラクターの一人称視点からのモノローグは極端にすくない。この点においてもRPGSRPGにキャラクターとプレイヤーの距離感は異なる。基本的にプレイヤーはSRPGのキャラクターの内面にはアクセスできない。(そのためかタクティクスオウガにおいてその手を汚すのはデニムであって、プレイヤーではない。本作の苦悩は民族主義的な虐殺に加担することというよりも、才気あふれる若者に虐殺を行わせるというプレイヤーの身勝手から起因すると思う。)

つまり、SRPGが描くべき群像劇とはグランドホテル形式、つまりは特定の一定閉じた世界内の人間模様であるべきた。この世界はある程度の包含関係にあってもよく、ユグドラル大陸やレンスター領でもいい。ただしSRPGにとって一番基本となる舞台設定はいわゆるマップた。

マップという閉じた舞台の中で展開される群像劇。これが私が求めるSRPGの理想的あり方である。群像劇がそうである通り、ここのユニットはお互いの能力で補いながらマップを攻略する。マップには様々な解かれるべきギミックが必要だ。逆に敵ユニットはこのマップと一体となり、インタラクションを持つ必要がある。狭い通路に潜むソードファイターや山岳地のペガサスナイト。プレイヤーもこれらを逆手にとってユニットを配置する。


さらに物語も会話ではなくマップによって展開されるべきだろう。援軍、裏切り、説得による敵の勧誘。マップで描写できる物語は思ったよりも芳醇だと思う。


次回は具体例からSRPGがユニットとマップによっていかに巧みな物語を描写するかを見てみようと思う。

私がSRPGに望むもの2

成長要素がSRPGに折り合いが悪かった場合、このジャンルはなにを目指せばいいだろうか。やはり固有のユニットがもつキャラクター性は捨てがたい。さらに言えば、通常のRPGに比べて多くのキャラクターを登場させることが容易だ。この点はもっと注目されるべきだろう。

実際、ファイアーエンブレムにしても通常のRPGを凌駕するキャラクター数が使用可能なユニットとして登場する。スパロボ系はむしろどのキャラクター(ロボ)が登場するかによって人気がかわるくらいであり、まさにキャラクターのラインナップこそすべてのような風采を帯びる。

キャラを豊富に描けれる。これはこれで1つのメリットだ。だが代償として、個々のキャラクターの掘り下げは甘くなる。30人を超すユニットの過去がカットシーンで流れるファイアーエンブレムは悪夢だろう(昨今のファイアーエンブレムはそうでなくとも悪夢だが)。

その代わり、特定の誰かの視点によらず物語を描写する、いわば群像劇的な描写にはSRPGの特性は強力に作用する。そもそもユニットを操作するというインタラクションはRPGのキャラクターを動かすのとは異なった距離感がある。ユニットとプレイヤーの距離感は常に一定であり、たとえ特定のユニットを優遇して成長させようとも、そのユニットがプレイヤーに特別な距離感をもって接近してくるようなことはない。(この点でも昨今のファイアーエンブレムではSRPGにあるまじき禁忌を犯している。マイユニットなる存在によってプレイヤーを強制的にゲーム内世界に引き入れるのだ。だがこの試みが成功したと思われる試しはない。)

このことは群像劇に挑戦したFF6の幾つかのイベントからも逆の方向から示唆される。FF6にはユニットを同時並行的に操作して攻略するイベントが発生する。また戦闘ではないがオペラハウスのイベントではこの形式を利用した物語が描写される。これらのイベントの操作感はまさにSRPG的と言ってよく、FF6が目指した群像劇としてのRPGを体現しているようだ。

ここまでの流れをまとめよう。SRPGは純粋なウォーシミュレーションから差異化する必要からキャラクターにフォーカスが当たる。しかしながらその結果としての成長要素はシミュレーションゲームの本来のあり方とレベルデザインにおいてコンフリクトを起こす。その一方で多数のキャラクターを登場させるという点でSRPGRPGが持ち得る物語の幅を拡張できる。それはしばしば群像劇といったタイプの物語に適している。ではSRPGが描くべき物語はどのようなものなのか、群像劇だとしてどのような群像劇であるのか。

 

私がSRPGに望むもの3 - Dance to Death:死に舞 on the Line

私がSRPGに望むもの1

とはいってもそれほどたくさんのSRPGをプレイしたとは言いがたい。ファイアーエムブレムシリーズは全作プレイしていないし、スパロボ系はほぼやってないし。タクティクスオウガはもちろんプレイしているが死者の迷宮を遊び倒したとはいいにくい。

それでも直感的にこのジャンルが向いているもの、向いている世界観、向いているストーリーがあると思う。それについて話そうと思う。

まずSRPGとは何かだ。ゲームのジャンルはそれほどはっきりした区別ができないものではるが、概ね「成長要素があるシミュレーションゲーム」とされていると思う。この定義は「成長要素」と「シミュレーションゲーム」というさらなる概念によって分析される必要は待たれるが、ここでの議論ではそこまで踏み込む必要はないだろう。「成長要素」とは端的にいえばレベルシステムであり、その他のユニットのアップグレードだ。「シミュレーションゲーム」とは何らかのリアル(それはファンタジー世界であってもいい)を再現することを志向したゲームである。ただしSRPGのシミュレーションとはほとんどの場合、ウォーシミュレーション、コンバットシムを指す。戦術、戦略といった規模の違いはあるかもしれないけど、戦争を題材にしていないSRPGとはあるのだろうか(もしかしてあるんだろう)

ここで分析された「成長要素」と「シミュレーション」によって、SRPGが戦争の中でのキャラクターの成長を描くと考える向きはあるだろう。事実、多くのSRPGにはこの点にフォーカスを当てるギミック、つまりレベルアップとかクラスチェンジとかユニットの友好度などをフィーチャしている。さらにこれらの成長要素は主にキャラクターに付与される。大戦略のような純粋なウォーシミュレーションにも多少の成長要素はあるが、ほとんどの場合、SRPGとされないのはここに理由がある用に思える。つまり成長要素は戦車や戦闘機の(トークン」ユニットに付与されるのであって、個別のキャラクターにされない。(逆に戦場のヴァルキュリアではレベルが兵種全体に付与されるのは、SRPGというよりももっとウォーシミュレーション的な雰囲気が強かったように感じる。)

ここで生まれた一つの仮説、「SRPGはキャラクターの成長を描くウォーシミュレーションゲームである」というのはそれ自体は悪くないジャンルの規定であり、思想でもあると思う。ただし事実として見た場合、キャラクターの成長をうまく描いたSRPGというのはあまり思いつかない。せいぜい主人公が後半にクラスチェンジするとか、弱いユニットがレベルアップによって予想外に成長するとか、その手のことであって、ゲーム全体として成長を描くというよりも、あくまでもその一要素としてしか機能していないように思えるのだ。

それもそのはず、この成長要素というのはSRPGの一番むずかしいところ、まさにアキレス腱とも言えるポイントなのだ。というのは、多くのレベルシステムやアイテムによる強化といった要素はシミュレーションゲームレベルデザインを破壊する要素を含んでいる。この手のゲームをやる人にとってはしれたことだが、ほとんどのSRPGはユニットが育っていない序盤の方がキツい。そしてラストバトルは盛り上がりにかけることが多い。

本来のウォーシミュレーションやストラテジーゲームは主にマップ(と敵)の配置によってレベルデザインを行う。しかしながら、プレイヤー側の戦略が可変であると、マップで作られたレベルデザインが破壊される。これはたとえ、プレイヤー側のレベルに動的に敵ユニットの強さを調整しただけでは、解消しない問題である。というのもマップの地形補正などがまったく意味のなさいだけ、双方の能力がインフレした場合、それはただの損耗戦であって、ほとんどウォーシミュレーションとしての意味は成さなくなる。

ではなんなのか。SRPGにとって成長要素とはある意味、その本質であり毒であるのか。話は次回に続く。

私がSRPGに望むもの2 - Dance to Death:死に舞 on the Line

眠りによって全てが終わる:深夜アニメの音楽ノスタルジア

あまり健全な状態の精神ではなく、こういう時は限りなく鬱な音楽を聞きたくはなる。それも90年代末から00年代にあったいわゆる「深夜アニメ」のサウンドトラックを。もちろん現在も深夜アニメっていうかアニメは深夜に主にやっているわけだけど、個人的にこの時代のものがTHE深夜アニメだと私は信じている。エヴァのヒット以降、アニメの表現幅が広がったなんでもありの雰囲気。表現幅といっても、今のアニメみたいなリアルな背景とか3Dモデリングとかじゃなくて、リミテッドの中でいかに実験するかみたいな感じだけど。

と、Twitterでベストアニメサウンドトラックを考えてたら、結局そういう深夜アニメになったという話。順に追ってみよう。

 serial experiments lain

アニメの音楽といってOPやEDばかり話に上がるのは嫌だ。もちろんlainはOPも素晴らしいが、この奇っ怪なというか正直後味の悪い劇伴はどんなワンシーンよりもlainらしさ出ていると思う。

仲井戸麗市が手がけたことで知られるこのOSTは、ギターサウンドを貴重としながらもまさに深夜アニメとしか言いようがないわけのわからん不気味さを持っている。アンビエントからジャズ/フュージョン、ブルースまでごった煮ながらも統一感がある。

Boogiepop Phantom

個人的にlainの精神的続編と考えているブギーポップのアニメ版。その映像の暗さは異常なもので、lainよりもカルト的な雰囲気がある。OSTは当時、まだアンダーグラウンドだった日本のテクノシーンの素晴らしいドキュメンタリーだ。電気グルーヴとかそういうのじゃなくて、こういうメンツでアニメのOSTが成立していることは奇跡のようだ。

紹介するトラックはなんとレイ・ハラカミのもの。そしてアニメのサントラであってもレイ・ハラカミは当時からレイ・ハラカミだったんだなと思わせる。このOSTには実際に劇伴では使われていないトラックも多いのだが、このレイ・ハラカミのPoneはしっかりと重要なシーンで印象的に使われている。ぼんやりとした雰囲気から心洗われる流れはまさにブギーポップの雰囲気をうまく伝えている。

Gungrave

00年代はまだまだメディアミックスという言葉がよく使われてた。今では別に珍しくともなんともないんだけど。ガングレイヴはもともとゲームの企画として始まったものが、アニメも平行して作られたものだ。内藤泰弘のキャラデザということもあって良い意味のB級感満載のアメコミ風ゲームになっているが、アニメの方は脚本家と監督の都留稔幸が非常に良い仕事をした結果、ファンタジー風男たちの挽歌のような内容になっている。要するにマフィアたちの裏切りと友情の話だ。

サントラは菊地成孔の先輩にあたり、菅野よう子のバンマスなどもやっている今堀恒雄だ。今堀といえば同じく内藤泰弘トライガンのOPも有名だが、個人的にはこのガングレイヴのOPの方が好きだ。だってこれなんていうジャンル?当時、エッジの効いた深夜アニメではインストをOPに当てることも珍しくなかったが、ここまでアヴァンギャルドなのは聞いたことがない。チェンバー・ロックなのかスムース・ジャズなのか、なんとも言えないんだけど、マフィアものの回想シーンのようなものといえばなんとなく納得の行くような感じがするのである。

 Gunslinger Girl

本編アップロードされているのを貼るのは少しためらいがあるが、これOSTで確認できなかった。(OSTもまあ持ってないんだけど)。なんにせよ、一見してオタクの慰みものとして語られがちな本作だが、少なくとも最初のアニメは非常にしっかりとした演出がなされていた。この場面、追走するシーンにビブラフォンをフィーチャーしたアップテンポのジャズを使うセンスは、最初に見た時からはっきりと覚えている。トリエラの大人っぽさともよくマッチしているし、トレンチコートもかっこいい。

音楽は芸大出身の佐橋俊彦という人がやっている。いかにも職業的な劇伴音楽作曲家という感じで、他の楽曲もかなりの安定感がある。同じく佐橋が作曲したEDの「DOPO IL SOGNO 〜夢のあとに〜 」も曲はガブリエル・フォーレの歌曲「夢のあとに」をもとにしたという大胆なものだ。シリアスな(少なくとも一期は...)雰囲気とヨーロッパの情緒感がちゃんと音楽にも現れている。アニメとしてはだが。

TEXHNOLYZE

ここでTEXHNOLYZEですよ。まじでこのアニメこの時期の実験的なアニメの中でもドを超えていた。サイバーパンク残酷任侠ディストピアSF?「もうそんなことはどうでもいい、僕は彼らを啓蒙したい」「駄目だ、もっと向上しようよ」そういう吉井さんのわけのわからんセリフがこのアニメを物が語っている。決して楽しいアニメではないが見る価値がある変態的作品だ。

音楽も輪をかけてやりたい放題。音楽は浦田恵司、溝口肇が関わっている。二人とも職業アニメ作曲家っぽさあるけど、彼等の音楽のやりたいことを全部あらいざらい出した感じ。ブルースありダブありギターノイズあり、本当になんだかよくわからん。しかも二枚組のアルバム。一枚は吉井さんがフィーチャー(吉井さんはこのアニメのある意味、男の中の男たるものだ)。

ただこのサントラ、どこでなっているかあんまり記憶ないねw

Noir

梶浦由記は好きだけど、まあいつも一緒ていうかフリジアンを貴重としたエスニックサウンドに80年代的なテクノ混ざっているねんと思う。実際、そういった雰囲気は最初の.hackのOPでは極めて良く発揮されていて、まるで前衛ダンスのような振付ですごいわけのわからん音楽がなるわけよ。そのほかヤンマーニとか名曲珍曲が多いのですが、やっぱNoirをもってきてしまう。これ単体で聞いたらいつ聞くのっていう雰囲気であるだけど、あの世界ではこの音楽がなっていることが納得できるわけ。だって1000年ものあいだキリスト教を信じつつ、暗黒世界でアサシンがいたわけだよ。そりゃ荘厳でカオティックな音楽さ。アサシンクリードもそのうちノワールをテーマにすればよい。

ともあれこの時代の梶浦×真下耕一は個人的にはすごいんだけどな。リミテッドアニメのすえに映画的な演出にたどりついた。雰囲気のある背景に間の多い会話。今のアニメにはない要素ですわ。 

ナジカ電撃作戦

ここに来て落としに来たかと思われそうだけど、このアニメも音楽も好きだよww バカバカしいまでのパンツアニメだけどちゃんとジェームス・ボンドをやろうとしてる雰囲気だけ(だけは)伝わってくる。結果としてこのオケであるww 曲だけ聞くと結構かっこいいスパイ風ビッグバンドジャズなんだけど、ホーンがところどころで音ズレる。なかなかすごい、近所のブラバンの同窓生が集まって吹いた感じ。でもそれでもやりたいことがわかる。スパイ映画、スパイ音楽がやりたいと。アニメだってやりたいことがわかる。スパイ映画でパンツが見たい。素晴らしい。そこにこころ打たれる。

OPがこの出来で、基本的にすべてこの出来です。これある意味、世紀の珍盤的なものだとおもうので、ヒンデミットの研究とかしている人は買った方がいいと思うよ。

孤立した楽しみとしての音楽

ふと音楽でしか実現不可能な体験というものについて考えてみる。ゲームや映画ではなく、音楽で。絶対音楽とか抽象表現とか難しいことを抜きにすると、個人的には音楽が「この自分にとって」現実のものとして鳴ることが一番、大きな違いのようだ。たとえ映画やゲームがフィクションの世界に没入している感覚を味あわせてくれても、それはお話として楽しんでいるのはほとんど否定出来ない(フィクションのパラドックスという問題はあるにせよ)。

他方、音楽はなんだか違う。いやただ私が違うものとして体験してきただけなのかもしれない。物語芸術ではないから当然だが、音楽はつねに自分にとっての音楽だ。こっ恥ずかしい言い方すれば、それは自分の人生のサウンドトラックなのだ。

人によってはこれはどうでもいいかもしれないが、自分にとっては重要な違いだ。映画やゲームによって現実の辛さを一時忘れることはできるかもしれないが、音楽のように人生そのもの自分そのもの慰めることはできない。字義通りに音楽は自分を癒やすように思える。

自分は悲しいときによくニール・ヤングを聞く。普通に『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』あたりを。または鬱屈しているときにはシューゲイザーのロックを聞く。今だとJesuを聞いている。

歌詞の内容がよくわからなくても、奏でられるサウンドに自らの波長を合わせる。いや自分の波長に合わせて、それに穏やかに干渉するように音楽を選ぶのだ。いわゆる癒し系音楽とはまったく異なるものなのだが。

そしてたいてい自分自身でなんとなく満足する。音楽を愛するということはどこか引きこもるような部分がある。もちろん、どこかで誰かとつながっていたいような感覚はあるにせよ、孤立した一人として音源というメディアで通してつながっていたい。3次元の世界が複雑すぎて、時間と波だけの感覚で話したいのかもしれない。

*追記:

あ、ゲーム音楽は違うわ。あれは俺がゲームの世界行ってます。ただニンテンドーコアみたいなのは、バグった感じになる。